壮大な謎と書いて、だいたい日常と読む ― 古代エジプト展と私の安心感

古代エジプトという言葉には、いつも「壮大な謎」という便利なラベルが貼られている気がする。スーパーで言えば「産地直送」と書いてある野菜くらい、なんとなく信用してしまう言葉なのだ。私も例外ではなく、ピラミッドとかファラオとか聞くだけで、難しいことは考えずに「すごい」「わからない」「とりあえず拝んでおこう」という気持ちになるタイプである。

そんな私が、ブルックリン博物館のコレクションを中心にした古代エジプト展を眺めていたら、少し拍子抜けするような感覚に陥った。展示されているのは王の権力や死後の世界といった、いかにも非日常なものばかりなのに、なぜか漂ってくるのは「生活感」なのである。住居や食事、仕事、育児。どれも私の毎日と地続きで、数千年も前の話だという実感が薄れてくる。

そういえば昔、歴史の教科書を読んでいても、私は年号より「この人もごはん食べてたんだろうな」という部分ばかり気になっていた。テストには一切出ない。自分でも困った性格だと思う。

本展を監修している河江肖剰氏の研究や映像は、ピラミッドを神秘の象徴として消費する視線から、そっと距離を取らせてくれる。クフ王やラメセス2世も、絶対的な存在である前に、制度や技術、信仰の中で生きていた一人の人間だったのだろう。そう思うと、急に親戚のおじさんのような気配がしてくるから不思議である。もちろん会ったことはない。

死後の世界への執着やミイラづくりも、「どう生きて、どう忘れられたくないか」という切実な問いの延長線上にあるらしい。猫のミイラまで丁寧につくられているのを見ると、愛情というものは時代を超えても、だいたい同じ方向に暴走するのだなと思う。私も飼っていた金魚のことを、いまだに思い出すので、人のことは言えない。

文明のすごさに圧倒されながら、最後に残った感想はとても地味だった。人間は昔から、あまり変わっていないのではないか、ということである。不安も願いも、たぶん今と同じくらい雑多で、同じくらい切実だったのだろう。そう考えると、こちらの悩みも少し軽くなる。ピラミッドの影に、もう答えは置き去りにされているのかもしれない。もっとも、それを取りに行く元気は、今のところあまりないのだが。

そんな体験をしたい人は2026年3月8日(日)まで福岡市美術館でエジプト展を体験してきてみてはいかがだろうか。

参考:古代エジプト展 福岡|2025年12月13日から福岡市美術館で開催!

幼稚園児の補助輪を外した日、私の足腰も試される

幼稚園児の三男の自転車の補助輪を、ついに外した。
工具を出してネジを回すだけの簡単な作業なのに、なぜかこちらの気持ちは少し重たい。「本当に大丈夫なのか」「泣くのではないか」など、余計な心配が次々と浮かぶのである。

自分の子どもの頃を思い出すと、自転車に乗れるようになるまで、やたらと時間がかかった記憶がある。何日も何日も練習して、膝は擦りむけ、心は折れかけ、それでも乗れなかった。あの頃の私は運動神経というものを、家に置いてきたのではないかと思うほどだった。

ところが三男は違った。
最初はもちろんふらふらしていたが、私が後ろを支えつつ、1時間も練習したら、なんとなく前に進むようになったのである。止まり方はまだ怪しいし、曲がるときはだいぶ大回りだが、それでも「乗れている」と言っていい状態だ。

それを見ながら、私は感動するより先に、「あれ、私より上達早くないか」と思ってしまった。親としてどうなのか分からないが、正直な感想である。遺伝って、都合のいいところだけ受け継がれないものだな、と思う。

練習が終わると、三男は息を弾ませながら「明日もやりたい」と言った。その顔が嬉しそうで、こちらも嬉しい。嬉しいのだが、同時に明日の自分の姿を想像して、少し遠い目にもなる。中腰で走り続け、変な筋肉を使い、夜に湿布を貼る未来が、わりとはっきり見えるのである。

それでもまあ、こういうのは今だけなのだろう。
そのうち「来なくていい」と言われる日が来る。そう思うと、疲れる予感ごと引き受けるしかないのだ。明日も私は、公園でふらふら走る。三男より先に、私のほうが転ばないように気をつけながら。

楽天お買い物マラソン2日目に2%を失った話|0のつく日とエントリー忘れの悲劇

楽天お買い物マラソンの二日目である。私はいつも通り、0のつく日に照準を合わせ、静かに、しかし確実に完走する予定だった。予定だった、というところがもう怪しい。なぜなら今回は、やらかしたからだ。

買い物自体は完璧だったと思う。必要なものを必要なだけ、店もちゃんと分けて、あとはポイントが降ってくるのを待つだけ。ところが、ふと夜になってから気づいた。39SHOP+1%と、楽天カードの0のつく日、どちらもエントリーしていないのである。あとの祭り、という言葉はこういう時のためにあるのだと思う。

思い返せば、昔から私は「エントリー」という作業を軽視しがちだった。クリック一つで済むのに、それを忘れる。まるで玄関に靴をそろえて満足し、肝心の鍵をかけ忘れる人間である。自分でも呆れるが、まあそれが私なのだ。

たかが2%である。計算すれば数百円、場合によってはワンコインにも満たない。そう思おうとするのだが、ポイントというものは不思議なもので、実際のお金よりも精神に与えるダメージが大きい。失ったのは2%だが、気分は20%減くらいなのである。

「確認しなかった自分が悪い」と、頭ではわかっている。わかっているのに、なぜか楽天の画面をもう一度開いてしまう自分がいる。エントリー済みの文字が出ないかと期待しているあたり、往生際が悪い。

結局、私は何も取り戻せなかった。ただ2%を失い、少しだけ学んだ気になっただけである。次は忘れない、たぶん忘れない、できれば忘れない。そう思いながら、ポイント明細を閉じた。たかが2%、されど2%。まあ、今日の私はそれを身をもって知った、というだけの話なのだ。

金額的には数百円だが気持ち的には数千円損した気分だ。
まだ、買い物していない人は「【2026年1月9日~】楽天市場のお買い物マラソンやスーパーセールにおすすめの商品と買い回りの攻略法」などを参考にエントリー忘れせずに買い物してくれたまえ。

宝くじは貧乏人の税金?それでも楽天銀行おまかせBIGで6億円を夢見る私の日常

宝くじは貧乏人の税金だ、という言葉は知っている。たしかに、あれは夢を買うというより、夢を維持するための会費みたいなものだと思う。そう思っているくせに、私は楽天銀行のおまかせBIGを300円だけ自動設定している。堂々たる矛盾である。

300円という金額がまたいやらしい。高すぎず、安すぎず、コンビニでお菓子を一個我慢すれば成立する額だ。私はこれを「未来への寄付」と呼んでいるが、誰に寄付しているのかはよく分からない。多分、平行世界の金持ちの私だ。

過去の戦績はひどい。4等が一回、そのほかはほぼ5等。しかも私は結果をきちんと見ていない。なぜなら、見た瞬間に現実が確定してしまうからである。封筒を開けなければ合否は決まらない受験票と同じ理屈だ。違うのは、合格している可能性が限りなく低い点である。

それでも設定を解除しないのは、ある日突然、口座に6億円が振り込まれている世界線が、まだ損なわれていないからだ。その可能性がゼロにならない限り、私は月曜日の朝でも少しだけ機嫌よく生きられる。残高確認のたびに、ほんの一瞬だけ呼吸が止まるのも悪くない。

冷静に考えれば、その6億円でやりたいことも特にない。仕事を辞めるかどうかも迷うし、豪邸に住んだら掃除が大変そうだ。結局、今と同じようにゴロゴロして、税金の計算で頭を抱えている気もする。

つまり私はお金が欲しいのではなく、「もしかしたら」という状態が好きなのだと思う。300円で一か月分のワクワクが買えるなら、まあ安い。貧乏人の税金と言われようが、今日も私は残高ゼロの夢を大事にしているのだ。

ちなみになぜ貧者の税金なのかというと、宝くじは半分程度が寺銭で結局公共施設等の整備に使われているからである。このあたりは「宝くじは貧乏人に課せられる税金?貧者の税金、愚者の税金といわれる理由」が詳しい。またしても説明は他社丸投げである。

PayPayポイント運用は意味あるのか問題と私のどうでもいい結論

ある日、歯磨きをしながら、なぜかPayPayポイント運用のことを考えていた。歯磨き中に考えることというのは、大体がどうでもいいのだが、これが意外と頭から離れなかったのである。

私は前から、PayPayのポイント運用を見かけるたびに思っていた。
「これ、なんでみんな続けてるんだろう」と。

手数料はかかるし、そのせいでポイント運用の欠点である権利落ちの回避ができるわけでもない。冷静に考えると、同じ値動きに連動するなら、普通に現金で投資したほうがよほど自由度が高い。なのに、みんな当たり前の顔でポイントを運用に突っ込んでいる。私はその光景を、商店街の福引きに無言で並ぶ人たちを見るような気持ちで眺めていた。

ここで話は少し脱線するが、私は昔、スタンプカードを異様に大事にする子どもだった。あと一個でいっぱいになるという理由だけで、全然おいしくないパン屋に通っていた記憶がある。今思えば、パンよりスタンプのほうを食べていたようなものだ。人は「もう少しで何かがもらえる」という状態に、異常に弱いのである。

PayPayポイント運用も、たぶんそれに近い。現金だと「減った」「増えた」で心がザワつくが、ポイントだとどこかゲーム感覚になる。負けても「まあポイントだし」と思えるし、増えたら増えたで、なぜか自分が投資上級者になった気がする。実際は何も変わっていないのに。

私はこういう仕組みに対して、斜に構えている自分が賢いような気になっていたが、冷静に考えると、ただ面倒くさがりなだけなのだ。現金投資は勉強も必要だし、責任も重い。ポイント運用は、言ってしまえば「考えなくていい投資」なのである。

みんなが続けている理由を考えた結果、たぶん答えは単純で、
「損しても痛くない顔ができるから」
これに尽きるのだと思う。

そう考えると、PayPayポイント運用は投資というより、少し大人向けのガチャみたいなものなのかもしれない。期待しすぎず、失望もしない。その距離感がちょうどいい人が多いのだろう。

私はというと、相変わらず歯磨きを終えても答えは出ず、「まあ、人それぞれか」とどうでもいい結論に落ち着いた。
たぶん明日には、また別のどうでもいいことを考えているはずである。

ちなみに権利落ちの会費については「ポイント運用で怖い権利落ちと対策 権利落ち回避で損を減らす」が参考になる。またしても詳細な説明は他人に丸投げである。

社長メールスパムとクレジットカード残高不足に挟まれた一日の記録

その日は、どうやら「信用」を試される日だったらしい。
朝、社長からのメールを装ったスパムに遭遇し、私は現代社会の警戒心を一段階引き上げたばかりだった。
最近のスパムは巧妙で、こちらの社会性をピンポイントで突いてくる。
私は少しだけ、自分を誇らしく思っていた。引っかからなかったからだ。

ところがその日の午後、今度は電話が鳴った。
知らない番号。
出ると、あの独特な声である。
「ジュウヨウナオシラセガアリマス」
抑揚のない機械音声。
私は反射的に「はいはい、またね」と思った。今日の私は騙されない。

だが、なぜか胸の奥がざわっとした。
結局、案内に従って番号を押した私は、すでに負けている。

結果から言うと、本物だった。
クレジットカードの引き落としが、残高不足で落ちていなかったのだ。
ジュウヨウナオシラセは、ジュウヨウだったのである。

私はしばらくスマホを見つめた。
朝は疑いすぎて正解、昼は疑いすぎて失敗。
人を信じない態度が、必ずしも賢さにはならないらしい。

考えてみれば、残高不足というのも心当たりはある。
コンビニで「ちょっとしたご褒美」を重ねた結果が、こうして機械音声に告げられただけだ。
スパムよりも、現実のほうがよほど容赦ない。

その日、私は二つの「重要なお知らせ」に出会った。
一つは無視して正解、もう一つは無視しなくて正解。
結局のところ、
信用できるかどうかは、声の滑らかさではなく、残高で決まることもあるのだと、どうでもいい学びを得た。

 

ちなみに、軽く書いているがカードの与信を甘く見ない方がいい。そのあたりは「クレジットヒストリー(クレヒス)の重要性と信用情報」に含蓄のある内容が書かれている。私は説明しない。

七草がゆは朝に食べるものだと思っていた|1月7日の夜と中学生の胃袋

七草がゆといえば朝、というのが私の中の常識だった。なぜ朝なのかはよく知らないが、なんとなく朝の寒い台所で、眠い目をこすりながら食べるもの、というイメージがある。ところが今年の1月7日、我が家の七草がゆは夜に出てきた。仕事から帰ってきて、コートを脱いだその先に、湯気を立てた七草がゆが待っていたのである。

私は一瞬、今日が何日なのか分からなくなった。正月はもう終わったはずだし、夜に七草がゆというのも、なんだか時差ボケのようで落ち着かない。だが妻は特に気にした様子もなく、「今日七草だから」と言った。そう言われると、こちらも「そうか」と納得するしかない。縁起ものは、出されたタイミングで受け入れるのが大人の態度なのだと思う。

七草がゆは、相変わらず七草がゆの味だった。セリ・ナズナ・ゴギョウ・ハコベラ・ホトケノザ・スズナ(カブ)・スズシロ(ダイコン)。名前だけ聞くと元気そうだが、味はとても控えめである。夜に食べるには、あまりにも静かな食べ物だ。例えるなら、テンションの低いラジオ番組のような感じである。

私は食べながら、「七草って全部言える人、どのくらいいるんだろう」と考えていた。毎年聞いているのに、毎年新鮮に忘れる。人の記憶というのは、都合のいいことだけ覚えて、どうでもいいことはすぐ逃がすようにできているらしい。

そんな中、またしても意外な光景が広がった。中学生の長男が、夜の七草がゆを「うまい」と言い、しかもおかわりをしたのだ。夜だぞ? 成長期とはいえ、もっとパンチのあるものを欲しがりそうなものなのに、七草がゆで満足している。私は内心、「本当にそれでいいのか」と思ったが、口には出さなかった。

結局、七草がゆが朝だろうが夜だろうが、食べる人が納得していれば問題ないのかもしれない。私は一杯で十分だったが、長男は二杯目に幸せそうだった。それを見て、七草のご利益というのは、胃腸よりも家族の意外な一面を知ることなのだと、どうでもいい結論に落ち着いたのである。

ANAマイル高還元ルート改悪と福岡市民の私が考えたどうでもいい不安

朝、スマホをぼんやり眺めていたら、「みずほルート終了」という文字が目に入った。こういうお知らせは、だいたい歯を磨いている途中とか、トイレに入った瞬間に見てしまうもので、今回も例に漏れず中途半端な姿勢で固まった。
みずほマイレージクラブカード/ANAが2026年1月で新規受付終了。いわゆるJQみずほルートの必須装備が絶たれるらしい。高還元界隈では、静かな悲鳴があがっている気配がする。

福岡市民である私は、地理的特権みたいな顔をしてANA VISA nimocaという70%交換ルートを持っている。なので、正直に言えば「今回は無風」である。無風なのだが、私はこの「無風」という言葉をあまり信用していない。天気予報で晴れと言われた日に限って、洗濯物が一枚だけ落ちていたりする人生を送ってきたからだ。

そもそも、こうした改悪というものは、単発で終わらない。ひとつのドミノが倒れると、なぜか関係なさそうなドミノまで倒れていく。みずほルートを失った人たちが「じゃあ次はnimocaだ」と福岡方面に殺到したらどうなるのか。nimoca側も「そんなに来られても困る」と思うに違いない。結果、こちらも改悪。世の中はだいたいそういう流れである。

昔、近所に評判の安い定食屋があって、テレビで紹介された翌週に値上げしたことがあった。私はそのとき、「人気って残酷だな」と思った。今回の件も、あれと同じ匂いがする。静かに使えていたものほど、騒がれると弱い。

とはいえ、私は何か対策を打つわけでもなく、ただnimocaを財布に入れたまま、少しだけ握りしめた。まるでお守りのように。
改悪を止める力は私にはないので、とりあえず今日も無風ということにしておく。風が吹いたら、そのとき考えればいいのだ。どうせ人間、だいたい後手なのだから。

1月21日までは申込できるそうなので、nimocaのエリア(九州+函館)以外の人は、みずほルート作っておくのも良いと思う。詳しくは「ANAマイル70%交換「みずほルート」が閉鎖決定!1/21までにやるべき駆け込み手順を全解説」。また投げる。

早起き父の弁当作り奮闘記|鮭弁当と朝食パスタの朝

妻が急に「ちょっと実家に行ってくる」と言い残して出かけた翌朝、私は長男と次男の朝食と弁当作りというミッションを授かった。

授かったというより、落ちてきたという感じである。料理は嫌いじゃない。むしろ嫌いじゃない部類に入ると思う。ただし、タイムリミットが午前7時30分という条件付きになると話は変わってくる。普段、そんな時間に完成を求められる料理などしていないのだ。

というわけで私は、朝5時30分に起きる完璧な計画を立てた。逆算もした。段取りも頭の中では完璧だった。ところが人間というのは、肝心なところで裏切る生き物である。目が覚めたら、まだ4時だった。目覚ましも鳴っていない。外も当然暗い。私は布団の中でしばらく考え、「もう起きるか」と、なぜか前向きな結論に達した。

台所に立つと、妙に頭が冴えている。鮭を焼き、ご飯を詰め、弁当は鮭弁当と決め打ちである。迷わない朝は強い。結果、5時には弁当の準備もすべて終わってしまった。時計を見て、私は少し不安になった。やることが、ない。
そこで凡ミスが発覚する。弁当でご飯を全部使い切ってしまったのだ。炊飯器は空っぽで、なぜか誇らしげに軽い。朝食用の白米は存在しない。ここで私は一瞬、冷凍ご飯という文明の利器を思い出したが、なぜか使いたくなかった。早起きテンションというのは、時々意味不明な判断を下す。

結果、朝食は鮭とピーマンのパスタになった。和なのか洋なのか、自分でもよく分からない。子どもたちは特に文句も言わず食べていたので、まあ成功なのだと思う。

私はコーヒーを飲みながら、「早起きは三文の徳って、こういう手持無沙汰も含めての話なのか」と考えた。結局その時間は、特に有意義でもなく、ただ静かに過ぎていった。
早く起きすぎると、段取りは良くなるが、時間は余る。余った時間をどう使うかまでは、誰も教えてくれない。次に同じミッションが来たら、たぶん私はまた早起きするだろう。そしてまた、ご飯を使い切る気がするのだ。

人間お湯につかればどうでもよくなる。博多温泉で無限周回した新春と私の話

私は温泉が好きだ。といっても、有名旅館や絶景露天に胸をときめかせるタイプではなく、どちらかというと「今日も生き延びたな」と体を沈められる湯が好きなのである。そんな私が何度も通ってしまうのが、福岡市内にある 博多温泉 旅館 富士の苑 だ。

新春、特に予定もなく、正月太りの兆候だけが立派に育った私は、日帰り温泉に行くことにした。高温のお風呂と水風呂を、ただ黙々と周回する。これを三回も繰り返すと、人生の悩みの半分くらいはどうでもよくなる気がする。残りの半分は、たぶん気のせいである。

富士の苑は、正直に言えば最新でもおしゃれでもない。入口を見た瞬間、「あ、知ってる、この感じ」と思う。昔、近所にあった銭湯の記憶が、急に押し寄せてくるのだ。私は小学生の頃、銭湯の下駄箱の鍵をよくなくした。今考えると、あれは鍵の問題ではなく、私の注意力の問題だった。

この温泉は泉質にやたらと自信がある。「本物の温泉」「あせもは一回で枯れる」と、なかなか強気だ。最初は半信半疑だったが、湯から上がったあとも体がポカポカしていると、「まあ、そう言われれば…」と都合よく納得してしまう自分がいる。人間は温かいと、だいたい優しくなるのだ。

塩化物泉なので、少ししょっぱい。間違って口に入ると「おっと」と思うが、不快ではない。石鹸の泡立ちは悪く、私は必死に泡を立てながら、「これは泉質のせいだから仕方ない」と自分を慰めた。こういう時、人は責任転嫁がうまくなる。

結局その日も、しっかり温まり、特に人生が変わることもなく帰宅した。ただ、新春の日帰り温泉としては最高だった。変わらない湯に浸かりながら、変わらない自分を確認できたので、それで十分なのである。

 

ぜひ行ってほしい。いつか泊まりたいと思いながらもそれは実現できていないのである。
参考:福岡市内で仕事帰りにも行ける日帰り温泉 博多温泉 旅館 富士の苑