福智町「上野焼 春の陶器まつり」で“うえのやき”と読んでいた私が、お茶碗に救われた日記

春になると、なぜか私は陶器を買いたくなる。冬のあいだは百均の皿で何の不満もなくカレーを食べていたくせに、少し暖かくなると急に「暮らしを整えたい」などと思い出すのである。人間というのは、気温が上がるだけでずいぶん偉そうになる。

そんなわけで、福岡県福智町で開かれた「第52回 上野焼 春の陶器まつり」へ行ってきた。上野焼は国指定の伝統的工芸品で、約420年の歴史があるという。420年。もう数字が大きすぎて、途中から年齢というより縄文土器の親戚みたいに感じてくる。

会場は上野の里ふれあい交流会館、上野焼陶芸館を中心に、参加窯元もまわる形である。私は行く前から少し得意げだった。「今日は上野焼を見に行く」と、心の中で何度も言っていたのだが、その読み方をずっと「うえのやき」だと思っていた。

ところが現地で案内を見たり、まわりの人の会話を聞いたりしているうちに、どうやら「あがのやき」と読むらしいことに気づいた。私は心の中で静かに倒れた。声に出して誰かに「うえのやきっていいですねえ」などと言う前で本当によかった。危うく、420年の歴史に対して、読み方から失礼を働くところであった。

考えてみれば、地名や焼き物の名前というのは、こちらの都合では読ませてくれない。人の名前と同じである。小学生のころ、初対面の同級生の苗字を堂々と読み間違えて、しばらく妙な空気になったことを思い出した。あの時も私は「漢字って、もう少し協力的であってほしい」と思った。今思えば、協力的でないのは私の知識のほうである。

まつりでは、上野焼の商品が20%オフで並んでいた。20%オフという言葉は、私の財布に向かって小さな太鼓を叩く。普段なら「高いな」とそっと戻すような器も、「今日は特別価格だし」と言い訳ができる。言い訳というのは、買い物における最高の調味料なのだ。

茶碗や皿、急須、小物がずらりと並んでいて、ひとつひとつ表情が違う。落ち着いた色合いのもの、土の感じが残っているもの、持つと手にしっくりくるもの。私はそれらを見ながら、「これでご飯を食べたら、納豆も少し品よく見えるのではないか」と思った。納豆のほうは何も変わっていないのに、器の力を借りて出世させようとしているのである。

窯元巡りも楽しかった。作る人が違うと、同じ上野焼でも雰囲気が変わる。おとなしい人、少し気難しい人、やさしい人みたいに、器にも性格があるように見えた。私は人間相手だと緊張するくせに、器相手だとやたら話しかけるような気持ちになる。「君は煮物向きだね」などと心の中で言っていた。完全に怪しい客である。

スタンプラリーもあり、私はこういうものに弱い。集めると何かが当たるかもしれない、というだけで急に足取りが軽くなる。普段の散歩ではすぐ疲れるのに、スタンプが絡むと別人のように歩ける。人間の体力は、目的ではなく景品で動くのかもしれない。

途中でキッチンカーの匂いにも負けた。陶器を見に来たはずなのに、胃袋はすぐに別行動を始める。美しい器を見て「侘び寂びだなあ」と思った数分後に、食べ物の前で「うまそう」としか考えられなくなるのだから、私の中の文化レベルはなかなか忙しい。

お茶体験もあり、上野焼の器でお茶を楽しめるというのがよかった。器が違うと、お茶まで少し立派に感じる。私が家で飲むお茶は、たいていマグカップに入った現実味の強い液体だが、ここで飲むお茶はちゃんと時間を持っている感じがした。お茶に時間があるというのも変な話だが、そう思ったのである。

結局、私は小さめの器をひとつ買った。大物を選ぶ勇気はなかったが、これくらいなら私の生活にも入ってきてくれそうだった。帰り道、その器を袋の中で大事に抱えながら、私はもう二度と「うえのやき」とは読まないぞと思った。

ただ、家に帰ってその器を見た時、読み間違いをしていた私にも、ちゃんと受け入れてくれるような静けさがあった。上野焼、いや、あがのやきは懐が深い。

420年の歴史に比べれば、私の勘違いなど湯のみの底に残ったお茶くらいのものだ。そう思うと少し安心した。これからはこの器でご飯を食べ、たまに読み方を思い出して一人で恥ずかしくなることにしよう。伝統工芸との付き合い方としては、たぶんかなり庶民的で、私にはちょうどいいのである。

参考:上野焼 春の陶器まつり2026|福智町で窯元巡りと20%オフ市

4月1日 自転車 交通ルール改正と自転車通勤 渋滞問題を考える朝の細道

朝、家を出て自転車にまたがると、いつもの道がいつもより少しだけ重たい顔をしているように見える日がある。たぶん私の気のせいなのだが、こういうのはだいたい自分の心が先に曇っているだけなのである。最近は、4月1日以降の自転車の交通ルール変更のことを考えるたびに、通勤ルートのあの細い道が頭に浮かぶ。あの道は、イエローカットなんてできるような余裕はもちろんない。車も自転車も、みんなで「どうぞどうぞ」と言いながら進むには、あまりにも現実がせまいのである。

私は自転車通勤をしているので、この手の話になると、急に自分の背中が小さくなる。自転車は環境にいいとか健康にいいとか、そういうことを言う前に、まず私は会社に間に合いたいだけなのだ。なんなら朝の私は、健康より寝不足のほうが圧倒的に強い。そんなぼんやりした人間が道路のすみっこを走りながら、「これでルールどおりなのか」と考えているわけだから、なかなか頼りない社会である。

子どものころ、道路というのはもっと大らかなものだと思っていた。自転車はスイスイ走り、車はブーブー走り、歩行者はなんとなく守られている気がしていた。今思うと、あれは単に私が何も考えていなかっただけで、世の中の仕組みを全部「なんとなく」で済ませていたのである。子どもというのは気楽でいい。だが大人になると、なんとなくの部分に黄色い線が引かれ、白い線が引かれ、標識が立ち、原則という言葉まで降ってくる。原則は立派だが、現場の道幅はちっとも広がらない。

自転車レーンもない道で、ルールだけが原則論に寄っていくと、正しさがきれいに並ぶかわりに、現場はきれいに混乱する。車の人も困るだろうし、自転車の私も困る。しかも、自分たちのせいで交通渋滞が起きるのは、なんとも残念な気持ちになるのである。私は別に渋滞を作りたくて自転車に乗っているわけではない。そんな大それた野望はない。ただ静かに会社へ行き、できれば汗も少なめで到着したいだけだ。なのに、道路では時々、私の存在が急に“社会問題の小さいサンプル”みたいになる。朝から荷が重い。

とはいえ、だからといってルールなんて適当でいいとも思わない。そこがまた面倒なところである。私は基本的にずぼらだが、ずぼらな人間ほど、みんなが同じルールで動いてくれたほうが助かるのだ。自由にどうぞと言われると、急に何をしていいかわからなくなる。ビュッフェで最初の一皿が決まらないのと同じである。人は意外と、自由に弱い。

だから、いっそのこと一度、自動車も自転車も、みんなが厳密に交通ルールを守ってみるのもいいのかもしれない。ものすごくきっちり、誰一人として「まあこのくらいは」と思わずに進んでみる。そうしたら、たぶんあちこちで「あれ、回らないぞ」ということが起きる。そこで初めて、社会全体が「道のほうが足りていないのでは」と本気で気づくのではないかと思う。今までは、人間の遠慮とか慣れとか気合いとか、そういう大変あやしいもので道路が回っていたのかもしれない。

考えてみれば、日本の社会はけっこうそういうところがある。足りないものを、誰かの我慢と工夫で埋めてしまうのである。すると、足りていない事実だけが見えにくくなる。私もついそうやって生きてきた。部屋の散らかりも、「まだ座れる場所はある」と自分に言い聞かせて放置してきた。しかし本当は放置であり、工夫ではない。道路も、あまり人の器用さに頼りすぎると、そのうちどこかで「もう無理です」となる気がする。

4月1日以降のルール変更を前にして、私は正しさと現実のあいだを、朝から細いタイヤで走っているような気分になる。転ばないように、怒られないように、でもちゃんと前に進みたい。そう考えると、必要なのは根性ではなくて、やっぱり道なのだと思う。ひどく当たり前の結論で、書いていて少し恥ずかしい。でも世の中は、ときどきその当たり前を言わないと、なかったことにされるのである。

そんなわけで私は今日も自転車に乗る。渋滞の一部になってしまうかもしれないという、なんとも肩身のせまい気持ちを背負いながら乗る。でも、その肩身のせまさがそのまま「ここは整えてほしいです」という小さい意思表示になるなら、まあそれも悪くないのかもしれない。朝の道で社会に問題を問うなんて、たいそうな言い方ではある。けれど私としては、ただ静かにペダルをこいでいるだけなのだ。社会への問いというより、通勤のついでである。

【総務省・携帯電話不正利用防止法改正】データSIM本人確認義務化と回線数上限の話を聞いて、ポイ活MNPの昔を思い出した話

このところ、携帯の話といえば料金より本人確認である。なんだか世の中、だんだん「はい、あなた本当にあなたですか」と聞いてくる場面が増えた気がする。私は別にやましいことはないのだが、聞かれると少しだけうろたえる。人はなぜ、正しいことをしていても確認されると小さくなるのか。不思議なものである。

昨日、2026年3月24日に、携帯電話不正利用防止法の改正案が閣議決定されて国会に提出されたという話を見た。内容はわりとまじめで、これまで音声SIMでは必要だった本人確認を、データ通信専用SIMにも広げること、それから「個人が使うには多すぎる回線数」を契約しようとしたら、事業者が断れるようにする、というものらしい。いまのところ具体的な上限数はまだ出ておらず、今後の省令などで決まる見込みだという。背景には、SNS型投資詐欺やロマンス詐欺でデータSIMが悪用されてきたことがある。なるほど、たしかに穴はふさぎたくなる。穴というのは、たいてい善良な人より先に、妙に手際のいい人が見つけるものなのである。

昔の私は、この「回線」という言葉に、今よりずっと胸をときめかせていた。MNPのキャンペーンを見ると、まるで秋のさんまを見た猫のように目つきが変わったものだ。乗り換えればポイント、契約すれば還元、翌月にはまた別の店で特典。世の中には、地道に働いてお金を得る人と、週末に家電量販店を巡って謎の達成感を得る人がいるが、私はかなり後者に寄っていたと思う。

もちろん、当時から大手各社には個人名義5回線前後の制限運用があった。ドコモは2009年に原則5回線までとし、auも現在、同一名義のスマホ・携帯電話を累計5回線までとしている。だから無限に増やせたわけではない。ただ、データSIMのほうは法的には抜けていたので、そこに時代のすき間風が吹いていたのだろう。すき間風は寒いが、好きな人には追い風でもあったのだ。

とはいえ、最近は私もだいぶ丸くなった。若いころのように、案件の終了日と開通日とポイント付与日をノートに書きつけて暮らすことはなくなった。あの頃の私は、携帯を使っていたというより、携帯に使われていた気がする。回線の管理表だけがやけに整っていて、部屋は散らかっていた。人間としての優先順位が少しおかしい。

それで今は「もうMNPもほどほどだなあ」と、しみじみ思うのである。法改正の流れを見ても、これからはデータSIMを大量に回してうまいことやる、みたいな昔ながらの遊び方は、かなりやりにくくなりそうだ。普通に1〜2回線の人には大きな影響は少ないだろうが、複数回線を抱えていた人ほど、ああ時代が閉じていくな、と思うのではないか。

……などと、引退した名選手のような顔で回顧してみたのだが、冷静に数えてみると、私はいまでも5回線ある。

ほどほどとは何か。

世間の感覚では、スマホは1人1台か、せいぜい仕事用と私用で2台くらいだろう。それなのに私は、もう落ち着いたみたいな顔をしながら5回線持っている。これは「節度ある生活」ではなく、「昔よりは暴れていないクマ」に近い。たしかに山は下りてきていないが、クマはクマなのである。

だからこのニュースを見て、少しだけ背筋が伸びた。私のような者が笑い話で済んでいるうちに、世の中はちゃんと線を引こうとしている。まっとうである。まっとうすぎて、ちょっと耳が痛い。でも、5回線持ちが「最近はほどほどです」と言うのも、なかなか味わい深い。人は自分に甘いし、私はとくにそうなのだと思う。

結局、ポイ活も回線も、ほどほどが一番いいのだろう。そう思いながら、今日も私は5つのSIMのことを、だいたい把握している。だいたい、というところが、いちばん危ないのかもしれない。

ちなみに、ちょっと古いデータかもしれないが、MNPしたことがないという人がネットユーザーでも5割、ドコモユーザーに限れば8割以上だという(参考:MNPをしているユーザーはネットユーザーでも50%程度

 

美味しんぼ アニメ で見て思う、昭和サラリーマンのゆるさと料理万能説

最近、私は『美味しんぼ』のアニメにはまっている。はまっている、という言い方も少し大げさで、正しくは、夕方になるとなんとなく見てしまい、気づけば次の話も押している、という感じである。しかも今はワイモバイルのお得キャンペーンで、Netflixが三か月無料なのだから、見ないほうが不自然なくらいだ。こういう「今だけ無料」に私は弱い。弱いというか、ほとんど無抵抗である。

『美味しんぼ』を見ていると、子どものころ、テレビで普通にこれを見ていた記憶がよみがえってくる。あのころは、ただ大人たちが怒ったり偉そうにしたりしながら、最後にはおいしいものを食べて丸く収まる話、くらいに思っていた。子どもというものは雑でよい。私もかなり雑だったのである。

ところが今見ると、毎回だいたい同じ型なのに、つい最後まで見てしまう。誰かが何かで困っている。職場がギスギスしている。親子仲が悪い。商売がうまくいかない。頑固者が意地を張っている。そういういろいろな問題が出てくるのだが、最終的には料理が出てきて、だいたい全部なんとかなるのである。すごい。そんなことがあるのかと思うが、あるのだから仕方がない。現実の世界では、煮物が出てきたからといって部長の性格が直ることはあまりない。しかし『美味しんぼ』の世界では直る。刺身ひとつで人生観まで変わる。料理の力が強すぎるのである。

この「料理だけで解決する」という流れを見ていると、昔読んだ昔話を思い出す。おじいさんが山へ芝刈りに行き、おばあさんが川へ洗濯に行く、あの感じである。様式美というのは強い。こっちはもう「はいはい、どうせ最後はなんか食べて心を入れ替えるんでしょう」と思いながら見ているのに、ちゃんと食べて、ちゃんと少し感動してしまう。私はずいぶん素直なのか、単純なのか、自分でもよくわからない。

それにしても、見ていて毎回気になるのは、昭和のサラリーマンの空気である。こんなに緩い感じで仕事していて大丈夫なのか、と心配になるほど緩い。もちろん忙しそうな顔はしているのだが、今のような、パソコンの画面を見つめながら無言で何かに追われている感じではない。ずいぶん長く席を立って話し込んでいるし、食べもののためにあちこち行くし、感情もすぐ顔に出す。上司も部下も、妙に人間くさい。会社なのに、どこか町内会みたいなのだ。

昭和ってスゲー時代だったんだな、と私は改めて思った。もちろん本当にあの通りだったかは知らない。たぶん現実は現実で大変だったのだろう。でも、少なくともアニメの中では、みんな仕事をしているのに、今より少しだけ人生にすき間があるように見える。そのすき間に、説教とかケンカとか、しみじみした食事とかが入り込んでくる。今だったら、会議の前にこんな長話をしていたら、「で、結論は?」と言われそうである。便利な言葉だが、あれを言われると人はだいたいしぼむ。私などはすぐしぼむ。干ししいたけくらいしぼむ。

そして、いちばんいいなと思うのは、子どももこれを面白がって見ていることである。今の子に昭和の会社員がどう映っているのかは知らないが、とりあえず料理の場面になるとちゃんと食いつく。やはり人間は、うまそうなものに弱いのだ。そこは時代が変わっても同じらしい。親としては、もっと教育に役立つ何かを一緒に見るべきなのかもしれないが、家族で「この世界、また料理で全部解決したね」と笑っていられるなら、それはそれで十分な気もする。

結局のところ、私は『美味しんぼ』を見て、昭和はすごいなあと感心し、料理は万能だなあと半分本気で思い、無料期間が終わる前に少しでも多く見ておこうとしている。なんともせこい話である。だが、人間なんてそのくらいでちょうどいいのだと思う。人生の問題が全部料理で片づくわけではないが、少なくともアニメを見ながら夕飯のことを考える時間は、なかなか悪くないのである。

キャビエルサンド 実食レビュー|クラウドファンディングの因縁スイーツをついに食べた話

以前、クラウドファンディングで支援した「キャビエルサンド」が、家族によって跡形もなく消えたことがあった。

私は支援者なのに食べていない。
世の中にはいろんな理不尽があるが、あれはなかなかの理不尽だったと思う。

そのとき私は、箱の中にわずかに残っていたキャビア塩入りのチョコレートだけを食べて、少ししょっぱい気持ちになったのである。味も気持ちも、どちらもしょっぱかった。

だが人間というのは不思議なもので、一度食べ損ねたものほど気になってしまう。

そこで私は、ついにキャビエルサンドを注文した。

すると、すぐ届いた。
最近の通販は本当に早い。私が注文ボタンを押してから「やっぱり太るかもしれないな」と少し後悔するより先に届く勢いである。

しかも今回は、
「1個買うともう1個プレゼント」
というたいへん太っ腹なキャンペーンをやっていた。

つまり、当然のように2個届いた。

この時点で私は思った。
今度こそ、絶対に食べられる。
なにしろ二つあるのだ。人間の倫理観にも多少は期待できる数である。

そしてついに、私は初めてキャビエルサンドを食べることができた。

長い戦いだった。
いや、戦ってはいないのだが、気持ちとしてはそんな感じである。

まずクッキー生地。

これは、なかなかしっかりしている。
サクサクというより、少しどっしりした感じだ。例えるなら、見た目は軽やかなのに意外と体重がある人みたいな感じである。余計なお世話だが。

次にクリーム。

これはとてもおいしい。
マスカルポーネのクリームがやさしくて、なんだか上品な甘さである。海をイメージした二層らしいが、正直なところ私はそこまで海を感じるほど繊細な舌は持っていない。
だが、おいしいことだけはよく分かる。

そしてチョコレート。

これがザクザクしていて良い。
食べるたびに小さく音がする感じで、ちょっと楽しい。人は食べ物に音があると、なぜか満足感が増える気がする。

説明ではクッキーでサンドしてプレスする食べ方になっているのだが、実際に食べてみると少し考えが変わった。

チョコレートの量などを考えると、
クッキー一枚にチョコとクリームを載せて食べる
これが一番バランスが良い気がする。

つまり、サンドしない。

商品名をわりと否定している食べ方である。

だが、おいしく食べることのほうが大事なのだと思う。

もっとも、私は別にグルメでもなんでもない。
味の違いを語れる人でもない。

この程度の感想にどれほどの価値があるのかは、私にもよく分からない。

むしろ、感想よりも印象に残ったことがある。

箱の中に、とても丁寧な手紙が入っていたのだ。

こういうものを見ると、作っている人の気持ちが伝わってくる気がする。スイーツというのは甘いものだが、作っている人の気持ちまで甘いと、なんだか応援したくなる。

そんなわけで私は、引き続きギフトとして応援してみようと思う。

まあ、また家族に全部食べられる可能性もあるのだが。

そのときはきっと、またキャビア塩のチョコだけが私のところに回ってくるのだろう。

人生とは、だいたいそんな配分でできている気がするのである。

買いたい人はぜひ買って応援してあげておくれ(キャビエルサンド公式EC)

映画ドラえもん 新海底鬼岩城 子どもと映画館に行ったのに山派と海派とクーポンのことばかり気になった話

子どもといっしょに『ドラえもん のび太の新海底鬼岩城』を見に行った。こういう映画は、親子で夢と冒険を味わうものなのだと思う。たぶん世の中的にはそういうことになっている。だが実際の私は、夢と冒険を味わう前に、まずクーポンと座席とポップコーンのことを考えていた。大人になると、感動の前に段取りが来るのである。なんだか気の毒な話だ。

予約はもちろんPontaパスである。ユナイテッド・シネマのキャナルシティで、大人料金が1400円になる。しかもポップコーンとドリンクのセットが400円で買える。これはかなりえらい。映画館の飲み物というのは、少し気を抜くと「この一杯で定食が食べられるのではないか」という値段になるので、400円という数字はもはや救いである。私はこういうお得情報に出会うと、急に世の中の裏道を知ってしまったような顔になる。たかがクーポンであるのに、人は妙に誇らしくなるのだ。

こういう時、私はいつも思う。ぜひここでアフィリエイト広告でも貼って、「みなさんもお得に映画をどうぞ」と景気よく宣伝したいものだと。文の途中に、いかにも親切そうに「こちらから」などと入れてみたい。だが、残念ながら案件がないのである。ほんとうに残念だ。こっちは宣伝する気だけは十分にあるのに、肝心の依頼が来ない。世の中というのは、こちらのやる気と収入がきれいに噛み合わないようにできているらしい。

それでもクーポンを手に、私はかなり上機嫌だった。今日は賢く立ち回っている、ぬかりのない大人だ、という気分で売店に向かったのである。だが、そういう時ほど人は転ぶ。ポップコーンセットのクーポンを出したところ、どうも注文がツードリンクセットになっていたようで、クーポンが使えなかった。私は一瞬、耳を疑った。そんなことがあるのかと思ったが、あるのである。しかもすでに商品が用意されていた。ポップコーンはもう、こちらの迷いなど知らぬ顔で堂々と置かれている。飲み物も完成している。ここで「じゃあやめます」と言える人は、よほど心が強い。私は弱い。

断腸の思い、という言葉は、こういう時に使うのかもしれないと思った。もちろん本来はもっと重大な場面に使うのだろうが、私の中ではかなりの断腸だった。だが大人は、こういう時に平気な顔をしなければならない。「あ、大丈夫です」と、なんでもない風を装うのである。全然大丈夫ではない。心の中では、小さな私が床を転がって「400円……」と言っている。だが表面上は落ち着いている。落ち着いて会計を済ませ、落ち着いて商品を受け取り、落ち着いて少しだけ損をした現実を飲み込む。大人とは、感情をのみ込む生き物なのだと思う。だいたい、こういうどうでもいいことで。

そんな小さな敗北を胸に抱えつつ席につき、いよいよ映画が始まった。子どもは当然わくわくしている。私はポップコーンをひとつつまみながら、「まあ、映画がよければすべてよしだ」と自分に言い聞かせていた。たぶんこういう時、人は何か大きなもので小さな損失を薄めようとするのである。人生はだいたいそうだ。

ところが映画が始まってまもなく、今度は別のことが気になり出した。最初の場面で、のび太としずかちゃんは山に行きたいと言い、ジャイアンとスネ夫は海に行きたいと言っていたのである。私はそこで「あれ」と思った。旧版では逆ではなかったか。たしか逆だった気がする。映画はもう始まっているのに、私の頭の中では別の会議が始まってしまった。山派と海派の再編問題である。実にどうでもいい。

昔から私は、こういう本筋と少しずれたことばかり気にするところがある。学校でも、先生の話の内容より、教室の後ろの掲示物がちょっと曲がっているほうが気になった。みんなが大事なことを聞いている時に、私は「この紙、左上だけ少し下がっているな」と思っていたのである。だから今も、映画の冒険より先に、キャラクターの希望の配置換えが引っかかるのだろう。脳の使い方があまり立派ではない。

なぜ逆にしたのかはわからない。今のキャラクターの印象に合わせたのかもしれないし、話の流れをすっきり見せるためかもしれない。しずかちゃんは山の清潔な空気が似合うし、スネ夫は海のレジャー感がよく似合う。ジャイアンも海のほうが勢いで押していけそうだし、のび太はどちらでも少し頼りないから、しずかちゃん側に置いたほうがなんとなく収まりがよい。たぶんそういうことなのだろう。いや、全然違うかもしれないが。

子どもは当然、そんなことはひとつも気にしていなかった。クーポンが使えなかったことも、山と海の配置が逆なことも、まるで問題にしていない。画面の中のドラえもんたちに夢中で、ただ映画をまっすぐ楽しんでいる。その姿を見ると、正しいのはたぶん子どものほうなのだと思う。私は映画を見に来たのに、節約の失敗と細かい違和感を大事に抱えている。忙しい客である。

でも、そういうどうでもいいことが妙に記憶に残るから不思議だ。映画の感動といっしょに、「あのクーポン使えなかったな」とか、「山と海、逆だったな」とか、そんな細いことが一本ひっかかったまま帰るのである。大人になると、人生はこういう小さな引っかかりでできていくのかもしれない。感動だけでは、案外きれいに流れてしまう。

結局、映画を見た日の私の記憶は、海底の冒険とポップコーンの損失と山海の配置が三つ巴になっている。どれが主役なのかよくわからない。だが、たぶんそれでいいのだと思う。親子で映画を見に行った日というのは、立派な思い出であると同時に、クーポンひとつで少しだけ心が揺れる日でもあるのだ。

そう考えると、大人というのは案外せわしない。お得に喜び、使えずにしょんぼりし、映画ではどうでもいいところにひっかかる。だがその全部を含めて、たしかにその日の私だったのである。だからまあ、ポップコーンが少し高くついたことも、山と海が逆だったことも、まとめて映画館の味だったということにしておこうと思う。ほんとうに、どうでもいい納得なのである。

福岡の映画館については「2026年版 天神や博多駅など福岡市内の映画館情報とお得な割引サービス」がよくまとまっていると思う。

ETCマイレージ 失効 注意 年度末 ポイント交換を忘れたくない人の、あぶないあぶない話

年度末というものは、どうしてこう人をせかすのだろうと思う。
べつに誰かに追い立てられているわけでもないのに、三月になると急に「やっておいたほうがいいこと」が、押し入れのすみからぞろぞろ出てくる。確定申告だの、保険だの、使っていないアプリの整理だの、私の頭の中は年末よりもむしろ年度末のほうが散らかるのである。

そんな中、ふと思い出したのがETCマイレージだった。
思い出した、というより、正確には「そういえばあれ、どうなってるんだっけ」と、半分いやな予感をともなってサイトをのぞいたのである。すると、そこに出てきたのが「2026年03月末日まで有効なポイント 575ポイント」という表示だった。
五百七十五ポイント。
なんとも絶妙な数字である。多すぎて見過ごせないが、少なすぎて王様みたいな顔もできない。財布の中で見つけた千円札ではなく、冬のコートのポケットから出てきた五百円玉みたいな感じだ。うれしいが、危なかったなという気持ちのほうが強い。あぶないあぶない。

私はこういう「失効しますよ」というものに弱い。
ポイントとか、クーポンとか、引き換え期限とか、そういうものを前にすると、人は急に小市民になる。いや、私は常に小市民なのだが、よりいっそう小さくなるのである。
昔、パン屋でもらったスタンプカードを大事に持っていたことがある。あと一個で食パンがもらえる、というところまで来て、満を持して店に行ったら、カードの有効期限がきれいに切れていた。あの時の私の顔は、たぶん雨の日にぬれた段ボールみたいだったと思う。へなへなである。

ETCマイレージも、仕組みを知るとわりとまじめにできている。NEXCOなんかでは10円で1ポイントつくけれど、だからといって何でも10%還元というわけではない。1,000ポイントで500円分なら実質5%、3,000ポイントで2,500円分なら約8.3%、5,000ポイントで5,000円分になってようやく10%である。
なんだか算数の時間のようだが、こういうのは知るとちょっと楽しい。人は「お得」という言葉に出会うと、急に計算だけは熱心になる生き物なのだと思う。
月に一回、往復8,000円くらい高速に乗る人なら、年間でそこそこ貯まって、数千円分の無料通行になるらしい。こう書くと、かなり立派である。節約上手の人の家計簿に載っていそうな話だ。私の場合は、そこまで計画的に生きていないので、「なんか貯まってた。消えるところだった」が現実に近い。

しかもETCマイレージは、登録していなければ一切貯まらないし、あとから「あのときの分もお願い」と言ってもだめだという。ここがまた厳しい。人生にはわりと情状酌量というものがある気がするのだが、ポイントの世界は冷たい。
さらにポイントは道路事業者ごとに別々について、付与された年度の翌年度末、つまり三月末で失効する。最長で約二年、最短で約一年。
この「最長」と「最短」が混ざっている感じが、また人を油断させる。まだ大丈夫な気もするし、もう遅い気もする。こういうあいまいなものに対して、人はだいたい負ける。私も何度も負けてきた。

それにしても、575ポイントというのは、実に私らしい中途半端さだと思う。
5,000ポイントまで貯めれば最大10%還元、などと聞くと、ちゃんと高速に乗って、ちゃんと貯めて、ちゃんと交換する人の背中が遠くに見える。私はその手前で、ちょこちょこ乗って、ちょこちょこ貯まって、危うくちょこっと失うところだった。
こういうところに、人の生活は出るのだろう。大きな失敗はしないが、小さくあぶない。派手さはないが、気を抜くとすぐ何かが消える。私の暮らしはだいたいそういう感じである。

だから年度末にやっておくこととして、ETCマイレージの確認はかなりえらい部類に入ると思う。
なにしろ、もう走り終えた道のぶんが、黙って消えていくのを見るのはさびしい。道路はそこにあるのに、ポイントだけいなくなる。薄情である。
せっかくなので、三月のうちに一度ログインして、失効前のポイントがないか見ておくのがよいのだと思う。大げさな節約術ではないけれど、こういうのは「拾える五百円を拾う」みたいな話なのである。

結局のところ、私たちの生活は、壮大な資産運用よりも、こういう小さな取りこぼしとの戦いなのかもしれない。
575ポイントを前にして、私は妙にしみじみした。
そして同時に、来年の三月にもたぶん似たような顔で「あぶないあぶない」と言っている気がする。人は学ぶ生き物だと言うけれど、ポイントのことに限っては、私はあまり成長していないのである。

ETCマイレージについては「 ETCマイレージとは?還元率・登録方法・年度末のポイント失効対策を解説【最大10%還元】 」の情報を参考にしている。

WBC 日本代表 侍ジャパン 台湾戦をNetflixで見た話 トライアルSIMで無料観戦した夜

私はふだん、そこまで野球に人生を預けている人間ではない。もちろん嫌いではないし、国際試合ともなれば気になってはくるのだが、毎日せっせと打率を追いかけたり、選手の登場曲まで覚えたりするほどの情熱はない。言ってしまえば、祭りがあれば顔を出す町内会の人くらいの気持ちで野球を見ているのである。

そんな私が今回、ずいぶん気持ちよくWBCの日本代表、侍ジャパンの試合を見てしまった。相手は台湾。東京ドームでの初戦である。結果は七回コールドの13対0。気持ちがいいにもほどがある。こちらがまだお菓子の袋をちゃんと開けきっていないうちに、もう二回で10点も入っていた。打者15人で7安打、一挙10点と聞くと、もはや攻撃というより引っ越し作業みたいである。ぞろぞろ出てきて、どんどん運び込んで、相手がぼうぜんとしているうちに部屋が埋まる。そんな勢いだった。

そしてやはり大谷翔平である。私は大谷を見るたびに、あまりにも出来すぎていて、少し作りものではないかという気持ちになる。二塁打を打ち、満塁ホームランを打ち、右前打も打って、3安打5打点である。人がひと晩でできることにも限度があるだろうと思うのだが、その限度というものを大谷はまるで気にしていないように見える。こちらはソファから立ち上がって飲み物を取るだけで「よいしょ」と声が漏れるのに、あちらは世界大会で満塁弾である。比べる相手が悪いにもほどがある。

しかも投げては山本由伸から5人の継投で、台湾を1安打零封である。打って派手、守ってきっちり。こういう試合を見ると、野球というのは本来ずいぶん整理されたスポーツなのだなと思う。点を取るべき人が取り、抑えるべき人が抑える。人生もこのくらい段取りよくいけばいいのだが、私の生活はだいたい洗濯機を回したあとで洗剤を入れ忘れたことに気づくような有様なので、侍ジャパンの整い方はまぶしすぎる。

それで今回の私の観戦には、もうひとつ、じつに現代的でこまごました事情があった。ワイモバイルのトライアルSIMを契約した上で、Netflixで無料鑑賞したのである。ここだけ聞くと、たいへん計画的で、デジタル時代をうまく泳いでいる人みたいだが、実際の私はそうでもない。無料とか限定とかお試しという言葉に、台所の隅を歩くアリみたいに吸い寄せられただけである。

昔から私は「今だけお得」に弱い。若いころも、店先に「ご自由にお持ちください」と書いてあると、別に欲しくもないチラシつきのポケットティッシュを必要以上にもらってしまった。あとでかばんの中がティッシュだらけになり、何のためにもらったのかわからなくなる。今回も少しそれに似ている。WBCを見たい気持ちと、無料で見られるなら見ておきたい気持ちが合体して、気づけばSIMを契約していた。野球を見ているのか、節約に興奮しているのか、自分でもよくわからないのである。

それでも、いざ試合が始まると、そんな細かいことはどうでもよくなった。点が入るたびに「おお」となり、大谷の満塁ホームランではちゃんと胸がどよめいた。無料だから感動も半額、ということはない。むしろ、人は「得をした」と思った状態で見る試合には、少しだけ機嫌よく向き合えるのかもしれない。たいへん小さい話だが、私のような人間にはその小さい機嫌のよさが案外大事なのだ。

考えてみれば、スポーツ観戦というのは不思議なものである。自分は一球も投げていないし、一塁まで一歩も走っていないのに、勝つとなんだかこちらまで立派になったような気がする。13対0で勝った夜などはなおさらで、私はただ画面の前でお菓子を食べていただけなのに、少しだけ世界に貢献したような顔で風呂に入った。ずうずうしいにもほどがある。

だが、そういうずうずうしさも含めて、こういう夜は悪くないのである。侍ジャパンは強いし、大谷はやはりすごいし、台湾戦はとてもエキサイティングだった。しかも私はワイモバイルのトライアルSIMとNetflixで、ちょっと得した気分まで味わっている。野球の感動という大きな話の横に、無料で見られたという小さな満足が並んでいるあたりが、なんとも私らしい。

結局、人は大きな勝利だけで生きているわけではなく、こういう「うまいこと見られた」という、どうでもいい喜びにもずいぶん支えられているのだと思う。侍ジャパンの快勝と、私のせこい達成感。その並びは少々情けないが、まあ、勝った夜くらいは何でもめでたいのである。

ChatGPTと保険会社と「知識の武装」――AI時代に崩れる情報格差という小さな革命

最近、なんとなくニュースを眺めていたら、日本生命がアメリカでChatGPTを作っているOpenAIを訴えたという話を見かけた。

理由はなかなか面白い。
保険の元受給者がChatGPTに相談して「和解を破棄できるかもしれない」という助言を受け、それを元に訴訟を起こしてきたらしいのである。

つまり、日本生命の言い分をざっくり言うとこうだ。

AIが弁護士みたいなことをしたせいで、面倒な訴訟に巻き込まれた。

ということらしい。

法律の細かい話は、正直よくわからない。
私は法律の話を聞くと、だいたい途中で頭の中が「条文」という名の霧に包まれてしまうタイプの人間なのである。

ただ、このニュースを見ていて、妙に気になることがあった。

それは「知識の武装」というやつだ。

世の中というのは、かなり長い間、知識を持つ人が強い仕組みで回ってきたと思う。

弁護士、医者、税理士、金融の専門家。
そういう人たちはもちろん努力して資格を取っているわけだが、同時に「知っている」というだけで圧倒的に有利でもある。

たとえば保険の契約書なんて、普通の人は読んでもほとんど理解できない。
文章が長くて、言葉がやたらと堅い。

あれはもう、読める人だけ読めばいいという雰囲気がぷんぷんする。

私は昔、携帯の契約書を読もうとして三行で眠くなったことがある。
あれは読書というより、睡眠導入剤に近いのではないかと思う。

だから世の中はたいてい、こうなる。

よくわからない人は
「まあプロが言うならそうなんだろう」
と納得してしまうのである。

私もだいたいそのタイプだ。

ところが最近は、様子が少し変わってきた。

わからないことがあったら、とりあえずAIに聞く。
すると、ものすごく丁寧に説明してくれる。

しかも怒らない。
同じ質問を三回しても怒らない。

これはすごいことである。

昔なら、
「そんなことも知らないんですか」
という顔をされるところなのだ。

AIはそういう顔をしない。
顔がないからである。

これは地味にありがたい。

だから今回のニュースも、見方によってはちょっと象徴的だ。

これまでなら、元受給者は
「もう和解したし仕方ないか」
で終わっていたかもしれない。

でも今回は
「ちょっと待てよ」
と思った。

そしてAIに聞いた。

それで理屈を手に入れてしまった。

これが、日本生命にとってはかなり厄介だったわけだ。

もちろんAIの回答が全部正しいとは限らない。
むしろ、けっこう間違う。

私もAIに聞いたレストランに行ったら、三年前に閉店していたということがあった。

あれはなかなかの徒労感だった。

しかし、それでも一つだけ確かなことがある。

知らないままではなくなる。

これは大きい。

昔から、知識というのは少しずつ平らになってきた。

活版印刷ができて、本が広がった。
インターネットができて、検索ができるようになった。

そして今、AIが説明してくれるようになった。

もしかすると今起きているのは、知識の民主化みたいなものなのかもしれない。

……と、ここまで考えてみたが、私はふと気づいた。

知識がいくら手に入っても、行動するかどうかは別問題なのである。

私はAIに健康のアドバイスを聞くが、だいたい三日で忘れる。

つまり人間というのは、知識より先にめんどくささに負ける生き物なのだ。

そう考えると、AIがどれだけ賢くなっても、世界はそこまで劇的には変わらない気もしてきた。

人間がだいたい、だらけているからである。

まあ、それならそれで、AIも少しは安心するのではないかと思うのだ。

1Passwordの33%の値上げと、私の茹でガエル的セキュリティ生活

最近、財布のひもが勝手にゆるむニュースが多いが、これはなかなか強烈だった。

1Passwordが、2026年3月27日より個人向けプランを値上げするらしい。
年額35.88ドルが47.88ドルへ。約33%アップである。

三割増しと聞くと、急に高級感が出る。
いや、出なくていいのである。

私はすでに1Passwordの住人だ。パソコンのログインパスワードも、iPhoneのあれも、なぜか複数台あるAndroid端末のそれも、すべて預けている。証券会社のパスキーまで面倒を見てもらっているのだから、もはや家族同然だ。

むしろ家族より秘密を知っている。

思えば昔の私は、同じパスワードを使い回す勇者だった。
「多少違っても、だいたい同じ」で乗り切っていたのである。
あの頃の私に今の状況を説明したら、「何と戦っているのだ」と言われるだろう。

だが今は違う。
英数字と記号が踊る24桁のパスワードを、私は一つも覚えていない。覚えていないが、なぜか安心している。全部1Passwordが覚えているからだ。

便利とは恐ろしい。

頼れば頼るほど、戻れなくなる。
これはもう、完全に茹でガエルである。

最初は「まあ月数百円だし」と軽い気持ちだった。それが気づけば、生活のインフラになっていた。電気や水道と同じポジションである。止まったら困る。

値上げの知らせを見た瞬間、私は軽くうめいた。

「うーん…」

たった十数ドルの差なのに、気持ちはずいぶん重い。
人は割合に弱いのだと思う。33%と言われると、急に裏切られた気持ちになる。実際は、ランチ数回分なのに。

しかし、乗り換えを考えた瞬間に頭が痛くなる。

エクスポート?
インポート?
もしどこかでミスをしたら?
あの大量のログイン情報を、自力で管理する未来?

想像しただけで、私はそっとブラウザを閉じた。

そして代わりに開いたのが、ソースネクストの1passwordの販売ページである。
値上げ前に三年分を買っておくという、ささやかな抵抗だ。

新規でも12,800円。追加購入なら8,800円。
三年分と思えば、まあ許容範囲だ。
いや、許容するしかない。

私は計算機を叩きながら、「これで時間を買ったのだ」と自分に言い聞かせる。三年間は現実逃避できる。三年後の私は、そのときの私に任せる。

未来の私は、きっとまた悩むだろう。

それにしても、人間とは不思議なものである。
パスワードは一つも覚えていないのに、料金の値上げ幅だけはきっちり覚えてしまう。

安全を外注する時代。
私は今日も、1Passwordに守られながら、値上げに小さくうなだれている。

便利さに囲まれて生きるというのは、こういうことなのだろう。

たぶん三年後も、私は同じことを言っている。
そしてまた、「まあ、しょうがないか」と更新ボタンを押すのである。