阪急アワーズイン再訪記|息子と二人旅・ANAブルーハンガーツアー・春休み東京宿泊の話

ホテルというのは、ふつう何度も泊まってはじめて「なんとなく勝手知ったる場所」みたいな顔ができるものだと思っていた。ところが私はこのたび、たった二回目にして、阪急アワーズインをうっすら定宿のように感じてしまったのである。人間のなれというのは実にいいかげんだ。

前回は出張で来た。仕事のついでの宿泊だったので、心はどこか落ち着かず、ホテルのことも「寝る場所」としてしか見ていなかった気がする。だが今回はちがう。今回は息子と二人旅である。しかも春休みだ。旅の空気が最初から少しだけ浮かれている。とはいえ、浮かれているのは主に息子のほうで、私のほうはマイルを使うときのあの、うれしいのか惜しいのかわからない気持ちを胸に、静かに東京へ向かったのである。虎の子のANAマイルを、えいっと放出したのだ。

息子はANAのブルーハンガーツアーというものに参加したかったらしい。私は最初、その名前を聞いたとき、青い格納庫を見るだけでそんなに心が躍るものなのかと思った。だが子どもにとって飛行機というのは、ただの乗り物ではないらしい。大人が思うよりずっと、夢とかロマンとか、そういう少し大げさなものがくっついている。私だって子どものころは工場見学とか、普段は入れない場所に入るだけで妙に興奮した。今でも「関係者以外立入禁止」と書いてあると、関係者でもないのに少し気になるのだから、人間の本質はたいして変わらないのかもしれない。

今回はツインルームだった。前回は一人で気楽だったが、ツインになると急に「旅」という感じがする。ベッドが二つ並んでいるだけで、ちょっとちゃんとしたことをしている気分になるのだから不思議だ。息子は部屋に入るなり、自分の寝る側をすばやく決めていた。こういうところだけは判断が早い。家で「早く片づけなさい」と言うと石のように動かないのに、ホテルのベッドの位置決めだけは風のようである。

それにしても、前回からあまり日が開いていないせいか、私はこのホテルの廊下やエレベーターを見ただけで、妙に「帰ってきた」ような気持ちになってしまった。二回目で帰ってきたも何もない。向こうからすれば、知らない客がまた来ただけである。なのにこちらは勝手に親しみを抱いているのだから、少々ずうずうしい。店で二回目に行っただけで常連顔をしそうになる自分を、私はときどき心の中で取り押さえている。

そんな勝手な親近感も手伝って、今回はおふろの王様に入って疲れをいやそう、と最初から決めていた。こういう「今回はこれをやる」がある旅は少し楽しい。大人になると、観光名所よりも風呂のほうが魅力的になってくるのが何とも言えない。若いころは旅といえば、見て、食べて、動き回るものだった気がするが、今はまず「どこで休めるか」に目がいく。年齢というのは、おそろしいほど正直に行動へ出る。

湯につかっていると、息子は明日のツアーのことを考えているのか、いつもより少しだけしゃんとして見えた。そういう顔を見ると、わざわざ東京まで来たかいがあったなと思う。マイルも減ったが、それはもう仕方がない。マイルというのは、ためているときが一番えらそうで、使うと急に心細くなる不思議な数字である。でも使わなければ、ただの数字のままだ。

息子との二人旅なんて、いつまでできるのかよくわからない。子どもはそのうち親と出かけるより、自分の世界のほうが忙しくなるだろう。そう思うと少ししみじみするが、しみじみしすぎるのも私らしくないので、ひとまず風呂上がりにのんびりできたことを喜ぶことにした。

たった二回目の阪急アワーズインは、やはりまだ定宿ではない。ないのだが、こちらが勝手にそう思って少し安心しているのだから、それでいいのである。旅の満足なんて案外そんなもので、立派な思い出より、見覚えのある廊下と大きい風呂があれば、もう十分なのだと思う。

【2026年3月 アフィリエイト報告】放置ブログを日記として復活させた私の広告収入が、あまりにも駄菓子みたいな額だった件

ブログというものは、しばらく放っておくと、なんとなく押し入れの奥にしまった健康器具みたいな気配を出してくる。使おうと思って買ったのに、気づけば上に別の荷物が積まれ、存在だけがうっすらしているのである。私にとってこのブログも、まさにそういう感じで、だいぶ長いこと放置されていた。

それが最近になって、なぜだかまた書こうという気になった。別に志が高まったわけでもないし、世界に向けて何かを訴えたくなったわけでもない。ただ、自分の日記として復活させるのも悪くないな、と思ったのである。人間、年をとると、自分が昨日何を食べたのかすら怪しくなってくる。ブログでも書いておけば、少なくとも「ああ、この頃の私はこんなことを考えていたのか」とあとで見返せる。見返して感心するような内容ではないが、何も残っていないよりはマシなのだ。

そしてこのブログには、読者もご存知のとおり、多少なりとも広告が貼ってある。多少なりとも、という言い方がいちばんしっくりくる。昔のように、ぎらぎらした目で「ここに広告、あそこにも広告」と詰め込んでいた時代とは違う。あの頃の私は、ネットの海の向こうに金脈が埋まっていると本気で思っていた節がある。今思うと、スーパーのチラシを握りしめて走るおばちゃんくらい必死だった。いや、おばちゃんに失礼かもしれない。おばちゃんはちゃんと成果を出している。

今はそこまでゴリゴリにアフィリエイトをするつもりはない。ないのだが、多少なりの収入があると、やはりうれしいのである。サラリーマンにとって副収入ほどありがたいものはない。毎月きっちり働いて、きっちり税金やら何やら引かれて、「はい、今月もお疲れさまでした」と言われても、財布の中身はたいしてふくらまない。その横から、ぽとりと小銭でも落ちてくると、人は妙に機嫌がよくなるものだ。たとえその小銭が、自販機の下をのぞき込んで見つけた10円玉みたいな額でもである。

ということで、発表しよう。このブログ記事のメイン広告、2026年3月の結果である。

8829回表示。
41回広告クリック。
報酬21円。

バーン、である。

いや、バーンじゃないのである。
21円でバーンと言われても、火薬が足りない。せいぜい「ポスッ」である。湿気たかんしゃく玉くらいの勢いしかない。

計算してみると、1クリックあたり約0.5円。私はこの数字を見たとき、なんとも言えない気持ちになった。0.5円というのは、もはやお金としての輪郭が薄い。半円玉がない以上、現実世界では単独で存在できない額である。つまり広告が1回クリックされるたびに、私は現実に存在しないものを受け取っているのだ。そう思うと少しかっこいいが、実際は全然かっこよくない。

昔、子どもの頃に駄菓子屋で「10円あればけっこう買える」と思っていた時代があった。あの頃の私に21円を見せたら、たぶん小躍りしたと思う。しかし今の私は、21円を見ても小躍りしない。コンビニでレジ横の募金箱に入れるかどうか一瞬迷うくらいの額である。人は大人になると夢を失うのではなく、21円への感受性を失うのかもしれない。

それでも、ゼロではないのである。ここが妙に大事だ。放置していたブログに広告を貼って、誰かが見て、誰かがクリックして、その結果として21円が生まれた。そう考えると、なんだか道ばたに咲いた雑草みたいで健気ではある。誰に頼まれたわけでもないのに、勝手に生えて勝手にがんばっている感じが、今のこのブログにはある。

もちろん、このペースでは最低受取額に到達するまで何年もかかりそうだ。下手をすると、受け取る前にサービスが終わるか、私のやる気がまたどこかへ行くか、どちらかである。そう考えるとずいぶん頼りない話だが、まあいいのよ、と思う。日記のついでに21円がついてくると思えば、ないよりはだいぶいい。期待しすぎるからがっかりするのであって、最初から「駄菓子一個ぶんにもならないかも」と思っていれば、21円でも意外と健闘しているように見える。

人生もたぶんそんなものなのだ。大きな花火を期待していたら、湿った音しかしないことがある。でも、音がしただけでも一応よしとするしかない。私の3月のアフィリエイトは、そんな感じだった。

つまり今月の結論としては、ブログは復活した。広告も一応働いた。私は21円を得た。
そして21円では何も買えないが、話のネタにはなったのである。

dポイント増量交換・PeX交換上限で失敗した3月末 ポイ活マニアがまた期限を忘れた話

三月の末というのは、どうも人を落ち着かなくさせる。
カレンダーの数字がやけに切迫して見えるし、なんとなく「今月じゅう」「年度内」「月末まで」といった言葉が、冷蔵庫の奥でしなしなになった野菜のように、こちらに存在感を放ってくるのである。

私はこの時期になると、世間の人が思う以上にポイントのことを考えている。
花見とか新生活とか、そういうきらびやかな話ではない。dポイント増量交換である。私のようなポイ活マニアにとって、これはもはや季節の行事というより、朝起きたら顔を洗う、くらいの日常に近い。ポイントを交換するだけで10%増える。しかもdポイントは日興フロッギーで実質換金できるのだから、気分としては、空き地に置いてあった段ボールを拾ったら中に千円札が入っていた、みたいな感じである。かなりうれしい。

だから今回も、私は当然のように動いた。
いつものように、ぬかりなく、手慣れた感じで、少し得意げですらあった。こういうときの私は、自分のことをかなり賢い人間だと思っている。実際には、ポイントの通り道だけに詳しい、ずいぶん偏った大人なのだが、そのときは見えないのである。

PeXに移したポイントは三百万。
数字だけ見ると、なんだか小さな成金みたいで気分がいい。画面の中の数字なのに、急に自分が経済を回している人のような顔つきになる。べつに回してはいない。ただ右から左に動かしているだけである。

ところがである。
私は、肝心なことを忘れていた。
PeXには交換上限があり、一日に百万、いや百万人分でもなく、百ポイントでもなく、百“万”ポイントしか動かせないのだ。三百万あるのに、一日百万。つまり、三日かかる。月末に気づいた私には、その三日がない。ないものはないのである。

※注記:PeXは10P=1円相当である

この瞬間、頭の中で、ああまたか、という音がした。
べつに実際に鳴ったわけではないが、かなりはっきり聞こえた気がした。私はこういう「あと一歩の凡ミス」を、驚くほど定期的にやる。以前も、増量交換のエントリーを忘れて、見事に増量されないという、目も当てられない失敗をしたばかりである。あのときは、準備万端で遠足に来たのに、肝心のリュックを家に置いてきたような気持ちになった。いや、遠足ならまだ笑えるが、ポイントは笑ってくれない。

それなのに、今回もまたこれである。
学習しない男、と書くと少し文学的だが、要するにうっかりしているだけだ。しかも私は、こういう失敗をしたあと、必ず「次はちゃんとやろう」と思う。その“思う”までは非常によくできる。問題はその先で、次になると、前回の自分の決意など、風呂あがりの湯気くらいの速さで消えているのだ。

思えば、昔からそうだった。
夏休みの宿題も、八月の前半には「今年こそ計画的にやる」と固く誓い、後半になると工作の材料を探して家中をひっくり返していた。大人になれば少しはましになると思っていたが、対象が宿題からポイントに変わっただけで、やっていることはほとんど同じである。人は成長するというが、案外、形を変えて同じところをぐるぐる回っているだけなのかもしれない。ハムスターの回し車みたいなものだ。しかも私の回し車には、dポイントとPeXのロゴが貼ってある。

もっとも、今回の失敗はまだましである。
前回のように、エントリー忘れでまるごと増量されない、という致命傷ではない。今回は、次回に回せばいいだけだ。そう思えば、腹も立たない。立たないどころか、「まあ許せるか」という気分にすらなる。人間は比較対象があると急に寛大になるものらしい。ひどい失敗のあとだと、少しひどい失敗はかわいく見える。これは成長ではなく、たぶん感覚が麻痺しているのだと思う。

三月末には、いろいろな期限がある。
そのたび私は、忘れないようにしよう、余裕を持とう、確認しよう、と毎年のように思う。だが、結局ぎりぎりになってから慌てるのである。そういう自分にあきれながら、それでもまたポイントを動かしている。
なんだかんだ言って、私はこういう細かいことで一喜一憂するのが好きなのだろう。

だからたぶん、次もまた参加する。
そしてまた何かを忘れる気もする。
もうここまでくると、ポイ活というより、うっかりの定期観測なのかもしれない。
増えるのはポイントだけで十分なのだが、失敗まで増やしているのだから、まったく困ったものである。

AI活用術・ChatGPT・Claude・Gemini・Perplexity・Grokで実践するMAGIシステム風仕事術

最近、私はAIで遊んでいるのか働いているのか、だんだんわからなくなってきた。たぶん両方なのだと思う。最初はちょっとした興味だったのである。「へえ、文章を書いてくれるんだ」と軽い気持ちでさわったのに、気づけば仕事でも使っている。こういうものは、だいたい最初の一歩がゆるい。ダイエット器具も英会話アプリも、最初だけはやる気に満ちているのだが、AIだけはなぜか生き残っている。人間のほうが根負けしたのかもしれない。

世の中にはいろんなAIがある。ChatGPT、Gemini、Perplexity、Claude、Grokなど、名前だけ見ると外国の強そうな人たちの集まりみたいである。私は最初、この名前をちゃんと覚えるだけで少し疲れた。GeminiのことをGemimiと書いてしまったりして、AIを使う前にまず自分の記憶力のあやしさと向き合うことになる。未来の道具を使っているのに、使っている本人はかなり昔ながらのうっかり人間なのだ。

それで最近、難しい問題を考えるときに、ちょっとおもしろいやり方をしている。エヴァンゲリオンのMAGIシステムみたいなことを、AIでそれっぽくやるのである。といっても、べつに秘密基地があるわけでもないし、部屋が赤く光るわけでもない。ただ同じ質問を三つくらいのAIに投げるだけだ。やっていることは地味である。見た目は地味だが、気分だけはだいぶ大げさになる。「いま私は複数の知性を統合している」と思うと、少しだけえらくなった気がする。たぶん気のせいである。

昔、なにか迷ったときに、母と父と自分の三人に聞けば答えが出る、みたいな時代があった。いや、正確には父はあまり答えを出さず、「まあ好きにしろ」と言う係だった気もするが、とにかく人は昔から、ひとりの意見だけでは心もとないと思っていたのだろう。学校でも、ひとりに聞いてだめなら別の子に聞いたし、店でも一軒目で決めずに二軒目を見た。そう考えると、AIを三つ並べて考えさせるのは、意外と庶民的な行為なのかもしれない。未来っぽいのに、やっていることは近所づきあいみたいなものだ。

しかもAIというのは、それぞれ少しずつ性格が違うように見える。こっちはまじめ、あっちは勢いがある、こっちは説明が細かい、あっちは妙に自信満々、などである。もちろん本当に性格があるわけではないのだろうが、人間というのはすぐ相手にキャラをつけたがる。私はたぶん、電卓を三台並べても「この子は堅実」くらい言い出すタイプである。そういう自分を見ていると、便利な道具を使っているはずなのに、最後は人間の勝手な思い込みで世界を整理している。なんだかいつもの私である。

三つのAIに同じ問いを出して、それぞれの答えを見比べる。すると、共通している部分が見えてくるし、逆に怪しいところも浮いてくる。ひとりだけ変な方向に全力疾走している答えがあったりして、それはそれでおもしろい。会議でも三人に聞くと、一人くらい話を広げすぎる人がいるが、あれに似ている。AIの世界でもそういうことが起こるのを見ると、私は少し安心する。完璧な知性ばかりだと、こちらのぼんやりした頭が肩身のせまい思いをするからである。

このやり方で進めると、けっこう精度のいい答えが返ってくる。少なくとも、ひとつだけを信じて突っ走るよりは、だいぶ足元がしっかりする感じがある。とはいえ、最後にまとめるのは自分なので、そこで急に私の雑さが顔を出す。せっかく三人の優等生が材料をそろえてくれたのに、盛りつける人が私なので、完成品が少しだけ台なしになるのである。これではMAGIというより、賢い人たちに支えられた不器用な係長である。

でも、たぶんそれでいいのだと思う。AIが何人いても、最後に「じゃあ私はどうするのか」を決めるのは自分である。三つの頭脳を借りても、こっちの頭が急によくなるわけではない。けれど、少しは慎重になれるし、少しは見落としが減る。それだけでも十分ありがたい。

結局のところ、私は未来のすごい仕組みを使っているようでいて、やっていることは「みんなに聞いてから決める」という、ずいぶん昔からある方法なのだ。人間は昔も今も、ひとりでは不安なのである。だから三人分の知恵を借りる。借りたところで、最後はだいたい自分らしい雑な結論に落ち着くのだが、それもまた私なのである。

4月1日 自転車 交通ルール改正と自転車通勤 渋滞問題を考える朝の細道

朝、家を出て自転車にまたがると、いつもの道がいつもより少しだけ重たい顔をしているように見える日がある。たぶん私の気のせいなのだが、こういうのはだいたい自分の心が先に曇っているだけなのである。最近は、4月1日以降の自転車の交通ルール変更のことを考えるたびに、通勤ルートのあの細い道が頭に浮かぶ。あの道は、イエローカットなんてできるような余裕はもちろんない。車も自転車も、みんなで「どうぞどうぞ」と言いながら進むには、あまりにも現実がせまいのである。

私は自転車通勤をしているので、この手の話になると、急に自分の背中が小さくなる。自転車は環境にいいとか健康にいいとか、そういうことを言う前に、まず私は会社に間に合いたいだけなのだ。なんなら朝の私は、健康より寝不足のほうが圧倒的に強い。そんなぼんやりした人間が道路のすみっこを走りながら、「これでルールどおりなのか」と考えているわけだから、なかなか頼りない社会である。

子どものころ、道路というのはもっと大らかなものだと思っていた。自転車はスイスイ走り、車はブーブー走り、歩行者はなんとなく守られている気がしていた。今思うと、あれは単に私が何も考えていなかっただけで、世の中の仕組みを全部「なんとなく」で済ませていたのである。子どもというのは気楽でいい。だが大人になると、なんとなくの部分に黄色い線が引かれ、白い線が引かれ、標識が立ち、原則という言葉まで降ってくる。原則は立派だが、現場の道幅はちっとも広がらない。

自転車レーンもない道で、ルールだけが原則論に寄っていくと、正しさがきれいに並ぶかわりに、現場はきれいに混乱する。車の人も困るだろうし、自転車の私も困る。しかも、自分たちのせいで交通渋滞が起きるのは、なんとも残念な気持ちになるのである。私は別に渋滞を作りたくて自転車に乗っているわけではない。そんな大それた野望はない。ただ静かに会社へ行き、できれば汗も少なめで到着したいだけだ。なのに、道路では時々、私の存在が急に“社会問題の小さいサンプル”みたいになる。朝から荷が重い。

とはいえ、だからといってルールなんて適当でいいとも思わない。そこがまた面倒なところである。私は基本的にずぼらだが、ずぼらな人間ほど、みんなが同じルールで動いてくれたほうが助かるのだ。自由にどうぞと言われると、急に何をしていいかわからなくなる。ビュッフェで最初の一皿が決まらないのと同じである。人は意外と、自由に弱い。

だから、いっそのこと一度、自動車も自転車も、みんなが厳密に交通ルールを守ってみるのもいいのかもしれない。ものすごくきっちり、誰一人として「まあこのくらいは」と思わずに進んでみる。そうしたら、たぶんあちこちで「あれ、回らないぞ」ということが起きる。そこで初めて、社会全体が「道のほうが足りていないのでは」と本気で気づくのではないかと思う。今までは、人間の遠慮とか慣れとか気合いとか、そういう大変あやしいもので道路が回っていたのかもしれない。

考えてみれば、日本の社会はけっこうそういうところがある。足りないものを、誰かの我慢と工夫で埋めてしまうのである。すると、足りていない事実だけが見えにくくなる。私もついそうやって生きてきた。部屋の散らかりも、「まだ座れる場所はある」と自分に言い聞かせて放置してきた。しかし本当は放置であり、工夫ではない。道路も、あまり人の器用さに頼りすぎると、そのうちどこかで「もう無理です」となる気がする。

4月1日以降のルール変更を前にして、私は正しさと現実のあいだを、朝から細いタイヤで走っているような気分になる。転ばないように、怒られないように、でもちゃんと前に進みたい。そう考えると、必要なのは根性ではなくて、やっぱり道なのだと思う。ひどく当たり前の結論で、書いていて少し恥ずかしい。でも世の中は、ときどきその当たり前を言わないと、なかったことにされるのである。

そんなわけで私は今日も自転車に乗る。渋滞の一部になってしまうかもしれないという、なんとも肩身のせまい気持ちを背負いながら乗る。でも、その肩身のせまさがそのまま「ここは整えてほしいです」という小さい意思表示になるなら、まあそれも悪くないのかもしれない。朝の道で社会に問題を問うなんて、たいそうな言い方ではある。けれど私としては、ただ静かにペダルをこいでいるだけなのだ。社会への問いというより、通勤のついでである。

美味しんぼ アニメ で見て思う、昭和サラリーマンのゆるさと料理万能説

最近、私は『美味しんぼ』のアニメにはまっている。はまっている、という言い方も少し大げさで、正しくは、夕方になるとなんとなく見てしまい、気づけば次の話も押している、という感じである。しかも今はワイモバイルのお得キャンペーンで、Netflixが三か月無料なのだから、見ないほうが不自然なくらいだ。こういう「今だけ無料」に私は弱い。弱いというか、ほとんど無抵抗である。

『美味しんぼ』を見ていると、子どものころ、テレビで普通にこれを見ていた記憶がよみがえってくる。あのころは、ただ大人たちが怒ったり偉そうにしたりしながら、最後にはおいしいものを食べて丸く収まる話、くらいに思っていた。子どもというものは雑でよい。私もかなり雑だったのである。

ところが今見ると、毎回だいたい同じ型なのに、つい最後まで見てしまう。誰かが何かで困っている。職場がギスギスしている。親子仲が悪い。商売がうまくいかない。頑固者が意地を張っている。そういういろいろな問題が出てくるのだが、最終的には料理が出てきて、だいたい全部なんとかなるのである。すごい。そんなことがあるのかと思うが、あるのだから仕方がない。現実の世界では、煮物が出てきたからといって部長の性格が直ることはあまりない。しかし『美味しんぼ』の世界では直る。刺身ひとつで人生観まで変わる。料理の力が強すぎるのである。

この「料理だけで解決する」という流れを見ていると、昔読んだ昔話を思い出す。おじいさんが山へ芝刈りに行き、おばあさんが川へ洗濯に行く、あの感じである。様式美というのは強い。こっちはもう「はいはい、どうせ最後はなんか食べて心を入れ替えるんでしょう」と思いながら見ているのに、ちゃんと食べて、ちゃんと少し感動してしまう。私はずいぶん素直なのか、単純なのか、自分でもよくわからない。

それにしても、見ていて毎回気になるのは、昭和のサラリーマンの空気である。こんなに緩い感じで仕事していて大丈夫なのか、と心配になるほど緩い。もちろん忙しそうな顔はしているのだが、今のような、パソコンの画面を見つめながら無言で何かに追われている感じではない。ずいぶん長く席を立って話し込んでいるし、食べもののためにあちこち行くし、感情もすぐ顔に出す。上司も部下も、妙に人間くさい。会社なのに、どこか町内会みたいなのだ。

昭和ってスゲー時代だったんだな、と私は改めて思った。もちろん本当にあの通りだったかは知らない。たぶん現実は現実で大変だったのだろう。でも、少なくともアニメの中では、みんな仕事をしているのに、今より少しだけ人生にすき間があるように見える。そのすき間に、説教とかケンカとか、しみじみした食事とかが入り込んでくる。今だったら、会議の前にこんな長話をしていたら、「で、結論は?」と言われそうである。便利な言葉だが、あれを言われると人はだいたいしぼむ。私などはすぐしぼむ。干ししいたけくらいしぼむ。

そして、いちばんいいなと思うのは、子どももこれを面白がって見ていることである。今の子に昭和の会社員がどう映っているのかは知らないが、とりあえず料理の場面になるとちゃんと食いつく。やはり人間は、うまそうなものに弱いのだ。そこは時代が変わっても同じらしい。親としては、もっと教育に役立つ何かを一緒に見るべきなのかもしれないが、家族で「この世界、また料理で全部解決したね」と笑っていられるなら、それはそれで十分な気もする。

結局のところ、私は『美味しんぼ』を見て、昭和はすごいなあと感心し、料理は万能だなあと半分本気で思い、無料期間が終わる前に少しでも多く見ておこうとしている。なんともせこい話である。だが、人間なんてそのくらいでちょうどいいのだと思う。人生の問題が全部料理で片づくわけではないが、少なくともアニメを見ながら夕飯のことを考える時間は、なかなか悪くないのである。

車検 タイヤ交換 ディーラー 楽天タイヤで心が往復する話

車検が近づいてくると、私は少しだけ人相が悪くなる。べつに誰かに怒っているわけではないのに、なんとなく口がへの字になるのである。二年に一回しか来ないくせに、毎回きっちり憂鬱を連れてくるあたり、車検というものは妙に律儀だと思う。

最初のころは、車検といえば「車を見てもらって安全になるんだから、ありがたいことだ」と、わりと素直に考えていた。ところが何回か経験すると、ありがたさの横に「いくらかかるんだろう」という、いやに現実的な顔をした不安が並んで座るようになる。しかもその不安は、かなり場所をとる。

そしてだいたいこの時期になると、もうひとり、毎回顔を出す人物がいる。タイヤ交換である。人物ではないが、気持ちとしてはもう親戚みたいなものだ。「そろそろタイヤ交換も」と前回も言われた気がするし、その前も似たようなことを言われた気がする。タイヤというのは、いつ見ても黒くて丸いだけなのに、急に高級品みたいな顔をしてくるから油断ならない。

私は車のことがよくわからない。タイヤの溝がどうとか、ゴムがどうとか言われると、「なるほど」と言いながら、心の中ではほとんどわかっていない。たぶん学校の授業でも、わからないのにわかった顔をしていたタイプである。そういうところだけ成長していないのだ。

それで、ディーラーに頼むと高いんだよなあ、と思う。いや、高いといっても、ちゃんとしてくれる安心料みたいなものはあるのだろう。店もきれいだし、飲み物も出るし、待っているあいだに「大人のきちんとした買い物をしている人」みたいな気分になれる。けれどその気分に二万円以上の価値があるかと聞かれると、私は急に口数が少なくなるのである。お茶とクッキーで二万円は、さすがに高級すぎる。

そこで楽天タイヤを見る。こういう時の私は妙に熱心で、ふだん洋服ひとつ買うにもぐずぐずするくせに、タイヤの値段になると真顔で比較を始める。総額で九万円くらい。安くはない。でも、ディーラーより二万円以上高くなるなら、もう面倒でも楽天でやるかな、という気になる。「経験値だと思って」という言い方を自分でしていて、なんだそれはと思う。私はいつから、タイヤ交換を冒険みたいに考えるようになったのか。

>>楽天Carタイヤ交換
アフィリエイトリンクなので安心して踏んでもらっていい。なんならタイヤ買ってください。

経験値というのも、たいていは面倒くさいことの言い換えである。若いころは、知らない店に入るのも、新しいことをするのも、多少は胸が躍った。いまはもう、胸が躍る前に「ちゃんと予約できるかな」「当日迷わないかな」「変なサイズを選んでいたらどうしよう」が先に来る。だいぶ地味な人生である。でも地味な不安は、派手な不安よりしつこいのだ。

昔、家の近くの自転車屋で空気を入れてもらっただけなのに、ついでにあれこれ直されて、最後によくわからない笑顔でお金を払ったことがある。あの時の私は、完全に店の人の流れに乗せられていた。川を流れる葉っぱみたいなものだったと思う。車検のたびに、その時の葉っぱの私がうっすら蘇る。たぶん私は、乗り物のメンテナンスという場面で、自分の意思がかなり弱くなるのである。

とはいえ、安ければ正義というわけでもない。結局、安心したいし、損もしたくないし、できれば面倒も避けたい。全部ほしい。こういうのは本当に、私の小ささがよく出る。堂々と「安全のためなら払います」と言えたらかっこいいのだろうが、私は電卓をたたきながら、あっちを見たりこっちを見たりしている。安全も大事、でも二万円も大事。なんともせせこましいが、生活とはそういうものなのだと思う。

たぶん最終的には、値段と手間と気分を天秤にかけて、いちばん「まあいいか」と思えるところに決めるのだろう。車検もタイヤも、考え始めると大ごとみたいだが、終わってしまえばたいてい忘れる。そして二年後、また同じ顔で憂鬱になるのである。人は成長するとも言うが、こういう件に関しては、私はずっと同じ場所をくるくる回っている。

でもまあ、タイヤひとつでこんなに悩めるうちは、まだ平和なのかもしれない。そう思うことにした。たいした悟りではないが、どうせ丸いタイヤの話なのだから、結論もそのくらい丸くていいのである。

食の軍師 崎陽軒 シウマイ弁当と私の脳内作戦会議

私は「軍師」という言葉に弱い。
別に戦国時代が好きというほどでもないし、三国志も詳しいわけではないのだが、「軍師」とつくと、なんだか急に話が立派になるのである。ふつうならただの迷いとか優柔不断とか言われそうなものでも、「軍師が策を練る」と言われると少しだけ頭が良さそうに聞こえる。実に都合のいい言葉なのだ。

さっき記事で「軍師」というキーワードを書いたせいで、私はふいに『食の軍師』を思い出してしまった。
あの漫画は実にいい。中年男がひとり飯をするたびに、頭の中で勝手に軍議を始めるのである。おでんも、蕎麦も、カレーも、ただ食べればそれで済む話なのに、いちいち攻略戦みたいになる。しかも本人はたいへん真剣なのに、見ているこちらからすると、だいたい大げさなのである。この「本人だけが大戦争」の感じが、なんともおかしい。

私はああいうものを見るたびに、他人事と思えない気持ちになる。
なぜなら私も、食べる前に無駄に考える人間だからである。

たとえば弁当ひとつ買うにしても、「今日は満足感を取るべきか、それとも軽さを優先するべきか」「今ここで揚げ物に行くと夜に後悔するのではないか」「いや、後悔を恐れていたら弁当など選べないのではないか」と、たいして必要でもない会議が頭の中で始まる。会議の参加者はもちろん私ひとりである。しかも結論が出るのは遅い。軍師というより、決断力のないおっさんである。

そして『食の軍師』のことを思い出すと、かなり高い確率で崎陽軒のシウマイ弁当が食べたくなる。
これがまた不思議なもので、あの弁当には人を作戦家にさせる何かがあるのだと思う。まず、どこから攻めるかで少し迷う。シウマイを先に行くか、後に残すか。筍煮をいつ挟むか。あんずは途中の気分転換に使うか、最後の締めに取っておくか。こうして書くと本当にどうでもいい話なのだが、食べる本人にとっては案外どうでもよくないのである。

私は昔から、シウマイ弁当のあの「全部が少しずつ気になる」感じに弱い。
主役はもちろんシウマイなのだが、脇役たちも妙に気が利いている。派手ではないのに、全員がちゃんと仕事をしている。学級委員みたいな弁当である。目立って騒ぐ者はいないが、全体のまとまりはやたら良い。あの俵型のご飯まで、きちんと並んでいてえらい。私の机の上の書類も、あれくらい整然としてほしいものだが、こちらはまったく統率が取れていない。

それにしても、『食の軍師』の本郷という人は、いつも脳内では堂々としているのに、現実では妙にうまくいかない。
ライバルの力石に勝手に張り合って、だいたい自分で転ぶ。あの感じもまた、私は少し身につまされる。人は歳を取ると落ち着くのかと思っていたが、実際には頭の中だけ立派になって、外側は案外そのままなのかもしれない。私だって、買い物前は完璧な計画を立てるのに、店に入ると余計なものを買っている。軍師不在である。

しかし、そういう無駄な妄想というのは、案外ばかにできない。
ただ弁当を食べるだけでも、「ここでシウマイを一つ温存」「今こそ筍で流れを変える」と勝手に考えていると、妙に楽しいのである。食事そのものより、その前後のくだらない脳内実況に味がある。人間の楽しみというのは、だいたいこういうものなのだと思う。役に立たないが、ちょっと嬉しい。

というわけで、私はまた崎陽軒のシウマイ弁当が食べたくなっている。
食べたところで天下は取れないし、別に何にも勝たないのだが、脳内でだけは立派な作戦が始まるだろう。
結局、食の軍師というのは、食事を楽しむための言い訳なのかもしれない。私にもたいへん必要な才能だと思う。

ぜひ買ってください(笑)

食の軍師(全8巻)

大井町駅徒歩1分アワーズイン阪急宿泊記|HafH出張で朝ラー「いりこ屋」に心を持っていかれた話

出張というものは、たいてい私の中では「できれば家でじっとしていたい気持ち」との戦いである。仕事だから行くしかないのだが、心のどこかで「オンラインで済みませんかね」と、誰に言うでもなく思っている。ところが今回はちがった。新しいスーツを新調したのである。こうなると話は別だ。人間というのは、服が一着増えただけで、自分の人生まで少しだけ上向いたような気になるから不思議だ。単純でよろしい。

そんなわけで私は、いつもならわりと見送るタイプの東京出張に、妙に前向きな気分で向かうことになった。新しいスーツを着て新幹線なり飛行機なりに乗ると、それだけで「できる人」っぽい気がしてくる。実際には、鞄の中で充電コードがからまり、駅でちょっと方向を間違え、心の中は全然できていないのだが、見た目がそれっぽいと少しだけ気が楽なのである。スーツというのはすごい。中身のぼんやりした感じまで、うっすら包んでくれる。

宿は大井町駅徒歩1分の「アワーズイン阪急」にした。宣伝っぽいが、別に宣伝ではない。こちらとしても、勝手に気分が盛り上がっているだけである。今回はHafHのポイントがたまっていたので、それを使った。HafHというのは、事前にポイントを買っておく仕組みなのだが、これがどうにも宿の料金感にむらがある印象なのだ。ものすごくお得に見える宿と、「それは普通に予約したほうがよくないか」と思う宿が、同じ画面の中で肩を並べている。あの感じは、スーパーの見切り品コーナーの横に高級フルーツが並んでいるようなもので、見るたびに少し気持ちがざわつく。

では何を信じればいいのかというと、私は素直にランキングを信じている。おすすめとか特集とか、そういうものはどうも話がうますぎる気がして身構えてしまうが、ランキングはまだしも群衆の気配がある。みんなが「まあ、ここでいいんじゃないか」と思った跡が見える。派手ではないが実直だ。レコメンドよりもランキングである。人生の大事なことを言っているようで、実際は宿選びの話しかしていないのだが、私の中ではかなり本気でそう思っている。

もっとも、今回の私はホテルそのもの以上に、別のものに心を奪われていた。HafH内のレビューで見つけた「朝ラーが楽しめる『いりこ屋』」である。朝からラーメン。字面だけ見ると少し無茶な気もするが、「いりこラーメン」と書かれているのを見た瞬間、私は急にその店のことしか考えられなくなった。博多にいると、とんこつラーメンを食べる機会が多い。もちろんおいしい。おいしいのだが、人はたまに、いつも好きなものとは別の方向に首をひねりたくなる。白いごはんが好きな人でも、急にお茶漬けが食べたくなる日がある。ああいう感じだと思う。

それで私は、宿を予約したくせに、気持ちの半分くらいはもう「いりこ屋」に行っていた。食べログやら何やらも見た。人は楽しみな予定ができると、まだ行ってもいない店のレビューを何件も読んで、勝手に味を想像し、勝手に満足度を上げていく生き物である。しかも私は、その店で何を食べるかまで、かなり前のめりに考えていた。朝にラーメンを食べる自分。少し眠そうな顔で、でも内心はかなりうれしい自分。そういう映像だけは、もう完璧に頭の中で上映されていた。

考えてみれば、昔から私はこういうところがある。遠足の本番より、前日にお菓子を詰めている時間のほうが楽しい子どもだった。旅行も、荷物を入れているときが妙にうれしい。本番になると、ちょっと疲れる。人間としてどうなのかと思うが、もうこれはそういう体質なのだろう。目的地そのものより、そこへ向かって「何かありそう」と思っている時間に弱いのである。期待を食べて生きている節がある。実際の食事はそのあとである。

新しいスーツを着て東京に行き、駅徒歩1分のホテルに泊まり、朝は朝ラーを食べる。こう並べると、ずいぶんきちんとした大人の出張みたいである。しかしその実態は、「新しい服うれしい」「ホテル便利そう」「ラーメン食べたい」という、かなり正直で小さい欲望の寄せ集めなのだ。仕事よりラーメンのことを考えている瞬間があるのも、あまり胸を張れる話ではない。だが、そういうどうでもいい楽しみが一つあるだけで、出張の面倒くささが少し薄まるのだから、案外ばかにできない。

結局、人は立派な理由だけで動いているわけではないのだと思う。新しいスーツでも、ランキング上位のホテルでも、朝のいりこラーメンでもいい。そういう小さなニンジンを自分の前にぶら下げながら、なんとか日々を前に進めているのである。私もたぶん、その程度のことで十分なのだ。むしろその程度だから、ちょうどいいのかもしれない。出張の本当の目的は仕事なのだが、心の中ではもう、いりこがかなり勝っているのである。

JR西日本WESTERポイント全線フリーきっぷで中学生の卒業旅行|ローカル線と朝ドラ聖地・松江出雲を巡る息子の鉄道旅

先日、息子が一泊二日の鉄道旅から帰ってきた。
JR西日本のWESTERポイントで交換できる「全線フリーきっぷ」という、なんとも夢のあるきっぷを使った卒業旅行である。

中学校の卒業祝いに「どこか行きたいところある?」と聞いたら、即座に
「ローカル線に乗りたい」
ときたので、私は思わず笑ってしまった。普通ならテーマパークとか、せめて都会のショッピングモールとかを想像するのだが、うちの息子は電車なのである。

そんなわけで、博多から新大阪までの新幹線を含め、JR西日本のほとんどの電車に乗れるというフリーきっぷを用意した。
これがなかなか豪快なきっぷで、乗ろうと思えばかなり遠くまで行ける。

ただし私は内心、
「まあ、せいぜい岡山くらいまでじゃないのか」
と勝手に思っていた。

ところがである。

帰ってきた息子の話を聞くと、松江だの出雲だの、私の想像よりはるかに遠くまで行っているではないか。
しかもローカル線をいくつも乗り継ぎながら。

親戚の家にも一泊させてもらい、ちゃっかり旅の拠点まで確保している。
中学生のくせに、やけに旅慣れているのである。

松江では、いまNHKの朝ドラの舞台になっている小泉八雲の住まいも見てきたらしい。
写真も見せてもらったが、私は正直なところ、八雲の家よりも息子の撮ってきた電車の写真のほうが多いことのほうが気になった。

どこへ行っても、結局は電車なのである。

そういえば、私が中学生のころはどうだったかと思い出してみた。
たぶん休日は家でゴロゴロして、テレビを見たりゲームをしたりしていたはずだ。

遠くへ行こうなどという発想は、ほとんどなかった。
電車に乗るとしても、せいぜい近所のショッピングセンターである。

それに比べて息子は、時刻表を調べてルートを組み、ローカル線を乗り継いで知らない土地まで行ってしまう。
私は感心しつつ、少しだけ不思議な気分になった。

同じ親から生まれているはずなのに、この行動力の差はどこから来るのだろうか。

もしかすると、私は「面倒だな」と思うタイプで、息子は「面白そう」と思うタイプなのかもしれない。

そう考えると、人生はわりとシンプルにできている気がする。
面白そうと思った人はどこまでも行き、面倒だと思った人は家にとどまる。

私は長いあいだ、わりと家にとどまっている側の人間である。

もっとも、それが悪いとも思っていない。
家でゴロゴロするのも、それはそれでなかなか快適なのだ。

ただ、息子の旅の話を聞いていると、ローカル線というものに少し興味がわいてきた。
ゆっくり走る電車に乗って、知らない町の駅に降りるというのも、案外いいかもしれない。

とはいえ実際にやるかと言われると、たぶんやらない気もする。

私はきっと、
「いいなあ」
と思いながら、家のソファに座っているタイプなのである。

まあ、それはそれで悪くない人生だと思うのだ。

次はいつ「フリーきっぷは取れるのか?」。とのことだ。いいきっぷをありがとうJR西日本。