福智町「上野焼 春の陶器まつり」で“うえのやき”と読んでいた私が、お茶碗に救われた日記

春になると、なぜか私は陶器を買いたくなる。冬のあいだは百均の皿で何の不満もなくカレーを食べていたくせに、少し暖かくなると急に「暮らしを整えたい」などと思い出すのである。人間というのは、気温が上がるだけでずいぶん偉そうになる。

そんなわけで、福岡県福智町で開かれた「第52回 上野焼 春の陶器まつり」へ行ってきた。上野焼は国指定の伝統的工芸品で、約420年の歴史があるという。420年。もう数字が大きすぎて、途中から年齢というより縄文土器の親戚みたいに感じてくる。

会場は上野の里ふれあい交流会館、上野焼陶芸館を中心に、参加窯元もまわる形である。私は行く前から少し得意げだった。「今日は上野焼を見に行く」と、心の中で何度も言っていたのだが、その読み方をずっと「うえのやき」だと思っていた。

ところが現地で案内を見たり、まわりの人の会話を聞いたりしているうちに、どうやら「あがのやき」と読むらしいことに気づいた。私は心の中で静かに倒れた。声に出して誰かに「うえのやきっていいですねえ」などと言う前で本当によかった。危うく、420年の歴史に対して、読み方から失礼を働くところであった。

考えてみれば、地名や焼き物の名前というのは、こちらの都合では読ませてくれない。人の名前と同じである。小学生のころ、初対面の同級生の苗字を堂々と読み間違えて、しばらく妙な空気になったことを思い出した。あの時も私は「漢字って、もう少し協力的であってほしい」と思った。今思えば、協力的でないのは私の知識のほうである。

まつりでは、上野焼の商品が20%オフで並んでいた。20%オフという言葉は、私の財布に向かって小さな太鼓を叩く。普段なら「高いな」とそっと戻すような器も、「今日は特別価格だし」と言い訳ができる。言い訳というのは、買い物における最高の調味料なのだ。

茶碗や皿、急須、小物がずらりと並んでいて、ひとつひとつ表情が違う。落ち着いた色合いのもの、土の感じが残っているもの、持つと手にしっくりくるもの。私はそれらを見ながら、「これでご飯を食べたら、納豆も少し品よく見えるのではないか」と思った。納豆のほうは何も変わっていないのに、器の力を借りて出世させようとしているのである。

窯元巡りも楽しかった。作る人が違うと、同じ上野焼でも雰囲気が変わる。おとなしい人、少し気難しい人、やさしい人みたいに、器にも性格があるように見えた。私は人間相手だと緊張するくせに、器相手だとやたら話しかけるような気持ちになる。「君は煮物向きだね」などと心の中で言っていた。完全に怪しい客である。

スタンプラリーもあり、私はこういうものに弱い。集めると何かが当たるかもしれない、というだけで急に足取りが軽くなる。普段の散歩ではすぐ疲れるのに、スタンプが絡むと別人のように歩ける。人間の体力は、目的ではなく景品で動くのかもしれない。

途中でキッチンカーの匂いにも負けた。陶器を見に来たはずなのに、胃袋はすぐに別行動を始める。美しい器を見て「侘び寂びだなあ」と思った数分後に、食べ物の前で「うまそう」としか考えられなくなるのだから、私の中の文化レベルはなかなか忙しい。

お茶体験もあり、上野焼の器でお茶を楽しめるというのがよかった。器が違うと、お茶まで少し立派に感じる。私が家で飲むお茶は、たいていマグカップに入った現実味の強い液体だが、ここで飲むお茶はちゃんと時間を持っている感じがした。お茶に時間があるというのも変な話だが、そう思ったのである。

結局、私は小さめの器をひとつ買った。大物を選ぶ勇気はなかったが、これくらいなら私の生活にも入ってきてくれそうだった。帰り道、その器を袋の中で大事に抱えながら、私はもう二度と「うえのやき」とは読まないぞと思った。

ただ、家に帰ってその器を見た時、読み間違いをしていた私にも、ちゃんと受け入れてくれるような静けさがあった。上野焼、いや、あがのやきは懐が深い。

420年の歴史に比べれば、私の勘違いなど湯のみの底に残ったお茶くらいのものだ。そう思うと少し安心した。これからはこの器でご飯を食べ、たまに読み方を思い出して一人で恥ずかしくなることにしよう。伝統工芸との付き合い方としては、たぶんかなり庶民的で、私にはちょうどいいのである。

参考:上野焼 春の陶器まつり2026|福智町で窯元巡りと20%オフ市

中山大藤まつり2026で樹齢300年の藤を見たら、私の首と心が少し紫になった話

春になると、私は急に花を見に行きたくなる。ふだんは道ばたのタンポポにも「お、黄色いな」くらいの雑な感想しか持たないくせに、桜だ藤だと言われると、まるで昔から花を愛してきた人間のような顔をして出かけるのである。

今年は福岡県柳川市の「中山大藤まつり」に行った。樹齢約300年の大藤があると聞いて、300年という数字にまずびびった。300年といえば、私が朝起きてから出かける決心をするまでの体感時間と同じくらい長い。そんなわけはないが、だいたいそれくらい重みのある年数である。

会場に着くと、藤棚いっぱいに紫の花房がぶら下がっていた。まるで上から紫色のそうめんが大量に干されているようで、こんなことを言うと藤に失礼だが、私の中の貧しい例え話がそう言っているのだから仕方ない。花房は長いものだと1メートルを超えるらしく、私の人生で1メートルもまっすぐ垂れ下がって美しいものなど、そうそう見たことがない。

神社の石橋を覆うように咲いている藤は、たしかに「藤のカーテン」と呼びたくなる姿だった。風が吹くと少し揺れて、そこだけ時間がゆっくりになったように見える。私は首を上に向けて、口を半開きにして見ていたと思う。こういう時、人間はだいたい賢そうな顔を保てない。

甘い香りもしていた。強すぎず、ふわっと来る感じである。子どもの頃、母の鏡台にあった化粧品の匂いをこっそり嗅いで、大人というものはずいぶん香るものだなと思ったことを思い出した。あの時の私は、口紅を少し出して戻せなくなり、無理やり押し込んで先端をぐちゃっとやった。あれに比べると、藤の香りはずっと上品で、誰にも怒られない。

この中山大藤は、江戸時代に地元の酒屋の「万さん」が大阪の野田から種を持ち帰ったのが始まりだという。万さん、なかなかの持ち帰り上手である。私など旅先で持ち帰るものといえば、だいたいレシートと半端なお菓子だけだ。それが300年後にこんなに人を集める藤になるのだから、人生はわからない。私が昔、机の引き出しにしまったどんぐりも、もしかしたら何かになっていたかもしれない。いや、たぶん虫が出ただけである。

まつりには屋台や物産販売もあり、私は花を見に来たはずなのに、途中から食べ物の気配に心を持っていかれた。人間の品格というものは、甘い香りと屋台の匂いが同時に来た時に試される。私はわりとすぐ負けるタイプだ。藤は300年も堂々と咲いているのに、私は数分で胃袋の言いなりなのである。

夜にはライトアップもあるらしい。昼の藤も十分きれいだったが、夜に光を浴びたら、また違う顔になるのだろう。人間もライトを当てれば多少ましに見える時がある。証明写真だけはなぜか逆で、あれは人の弱点を探す専門家みたいな光である。

藤の下を歩きながら、300年も咲き続けるものの前で、私は昨日の晩ごはんさえすぐ忘れる自分を思った。長く残るものには、それなりの理由があるのだろう。きれいだから、誰かが大事にしてきたから、また誰かが見に来るから。そうやって藤は今日も紫色でぶら下がっている。

私は結局、首を少し痛くしながら藤を見上げ、屋台のことを考え、最後に「春ってなかなか忙しいな」と思った。花も見なきゃいけないし、匂いも嗅がなきゃいけないし、食べ物にも気を取られなきゃいけない。

藤は300年、私は半日で疲れる。まあ、それぞれの咲き方があるということで納得したのである。

参考:中山大藤まつり2026|柳川の藤ライトアップと見頃情報

参考:福岡の藤の名所2026年版

【キャンプなぎの木 大野城ベース体験記】おじさん3人、ダッチオーブンと鳥の丸焼きで思い出したキャンプの勘

人には、好きだったはずなのに、すっかり忘れてしまうものがある。私にとってそれはキャンプだった。そんな大事なことを忘れるものかと思うが、忘れるのである。しかも数年単位で、きれいさっぱり忘れていた。まるで、押し入れの奥にしまったホットプレートのように、存在は知っているのに、ないものとして暮らしていたのだ。

子どもが小さいころは、ずいぶんキャンプに行ったものだった。子どもと、その友達家族と、わいわいにぎやかに出かけて、気づけばテントの数よりイスの数のほうが多いような、そんなキャンプである。子どもは走り回り、大人は肉を焼き、誰かが虫に騒ぎ、誰かが炭に苦戦する。あれはあれで、たいへんだったが楽しかった。

しかし子どもというものは、こちらの都合など気にせず成長する。中学生ともなると、土日にはそれぞれ何かしら予定が入るようになる。部活だの、友達との約束だの、よくわからない用事だの、とにかく親と一緒に「さあキャンプでも」とはいかなくなる。そうして私は、キャンプが好きだったこと自体を、うっかり忘れていたのである。なんとも薄情な話だ。

そんなさなか、仕事の関係者から「キャンプに行きたい」と誘われた。なんとなく軽い調子の話だったのだが、気がつけば本当に行くことになり、おじさん3人でキャンプに行くという、少し説明しづらい集まりが成立した。しかも、道具を持っているのは私だけで、ほかの二人はたいへん身軽だった。身軽というか、ほぼ手ぶらである。キャンプというのは、本来もう少し各自に責任がある遊びのはずだが、そのへんはふわっと始まった。

そこで私は、家の中のあちこちを探し回り、キャンプ道具を引っ張り出した。ランタン、テーブル、バーナー、ダッチオーブン。久しぶりに見る道具たちは、どれも「まだ使う気あったのか」という顔をしていた。私も同じ気持ちだった。キャンプ好きだったことを忘れていたくらいだから、道具の置き場所も半分くらい忘れていたのである。

行ったのはキャンプなぎの木 大野城ベース。太宰府インターから車で約5分という立地で、福岡市内からでも小一時間ほどで行ける。この手軽さはかなりよい。キャンプというと、自然を求めて山奥まで行き、たどり着くころにはすでに疲れている、ということもあるが、ここはそこまで気負わなくていい。自然はほしいが、遠すぎるのは困るという、少々わがままな大人にはちょうどよい場所なのである。

今回はリクエストもあり、鳥の丸焼きをダッチオーブンで作った。文字にすると急に本格派である。おじさん3人の集まりなのに、料理だけ妙にイベント性が高い。丸ごとの鳥というのは、それだけで少し特別感がある。普段の食卓ではなかなか登場しない姿なので、見た目の迫力もあるし、なんとなく場も盛り上がる。ダッチオーブンのふたを開けるときの、あの「ちゃんとできていてくれ」という緊張感は、何歳になってもよいものだ。無事にそれらしく焼けていたときには、たいしたことを成し遂げたわけでもないのに、妙に誇らしい気持ちになった。

考えてみれば、おじさん3人でキャンプというのは、少し奇妙である。若者でもなく、家族連れでもなく、それぞれまあまあの年齢の男が3人、自然の中で火を囲んでいるのだから、客観的に見ればなかなか味わい深い光景だったと思う。だが実際にやってみると、これがなかなか楽しい。変に気を使いすぎることもなく、かといって無言すぎることもなく、ただ火を見て、食べて、しゃべっているだけで時間が過ぎる。大人になると、こういう「特に意味はないが楽しい時間」は案外貴重なのだと思う。

それにしても私は、好きだったものを忘れていたのだから、ずいぶんもったいない数年を過ごしたものである。もっと早く思い出していればよかったとも思うが、人間はだいたい何かきっかけがないと思い出せない。押し入れの奥の道具も、使ってみればちゃんと役に立つし、自分もまだそれなりに動ける。そういうことが確認できただけでも、今回のキャンプは収穫だった。

今度は小学生の三男と一緒に行くのもいいなと思っている。子どもが大きくなると、親と出かける時間はだんだん減っていく。だから行けるうちに行っておいたほうがよいのだろう。まあ、そう思いながらまた先延ばしにするのが私なのだが、せっかくキャンプ好きだったことを思い出したのだから、今度は忘れないうちに火をおこしたいものである。

阪急アワーズイン再訪記|息子と二人旅・ANAブルーハンガーツアー・春休み東京宿泊の話

ホテルというのは、ふつう何度も泊まってはじめて「なんとなく勝手知ったる場所」みたいな顔ができるものだと思っていた。ところが私はこのたび、たった二回目にして、阪急アワーズインをうっすら定宿のように感じてしまったのである。人間のなれというのは実にいいかげんだ。

前回は出張で来た。仕事のついでの宿泊だったので、心はどこか落ち着かず、ホテルのことも「寝る場所」としてしか見ていなかった気がする。だが今回はちがう。今回は息子と二人旅である。しかも春休みだ。旅の空気が最初から少しだけ浮かれている。とはいえ、浮かれているのは主に息子のほうで、私のほうはマイルを使うときのあの、うれしいのか惜しいのかわからない気持ちを胸に、静かに東京へ向かったのである。虎の子のANAマイルを、えいっと放出したのだ。

息子はANAのブルーハンガーツアーというものに参加したかったらしい。私は最初、その名前を聞いたとき、青い格納庫を見るだけでそんなに心が躍るものなのかと思った。だが子どもにとって飛行機というのは、ただの乗り物ではないらしい。大人が思うよりずっと、夢とかロマンとか、そういう少し大げさなものがくっついている。私だって子どものころは工場見学とか、普段は入れない場所に入るだけで妙に興奮した。今でも「関係者以外立入禁止」と書いてあると、関係者でもないのに少し気になるのだから、人間の本質はたいして変わらないのかもしれない。

今回はツインルームだった。前回は一人で気楽だったが、ツインになると急に「旅」という感じがする。ベッドが二つ並んでいるだけで、ちょっとちゃんとしたことをしている気分になるのだから不思議だ。息子は部屋に入るなり、自分の寝る側をすばやく決めていた。こういうところだけは判断が早い。家で「早く片づけなさい」と言うと石のように動かないのに、ホテルのベッドの位置決めだけは風のようである。

それにしても、前回からあまり日が開いていないせいか、私はこのホテルの廊下やエレベーターを見ただけで、妙に「帰ってきた」ような気持ちになってしまった。二回目で帰ってきたも何もない。向こうからすれば、知らない客がまた来ただけである。なのにこちらは勝手に親しみを抱いているのだから、少々ずうずうしい。店で二回目に行っただけで常連顔をしそうになる自分を、私はときどき心の中で取り押さえている。

そんな勝手な親近感も手伝って、今回はおふろの王様に入って疲れをいやそう、と最初から決めていた。こういう「今回はこれをやる」がある旅は少し楽しい。大人になると、観光名所よりも風呂のほうが魅力的になってくるのが何とも言えない。若いころは旅といえば、見て、食べて、動き回るものだった気がするが、今はまず「どこで休めるか」に目がいく。年齢というのは、おそろしいほど正直に行動へ出る。

湯につかっていると、息子は明日のツアーのことを考えているのか、いつもより少しだけしゃんとして見えた。そういう顔を見ると、わざわざ東京まで来たかいがあったなと思う。マイルも減ったが、それはもう仕方がない。マイルというのは、ためているときが一番えらそうで、使うと急に心細くなる不思議な数字である。でも使わなければ、ただの数字のままだ。

息子との二人旅なんて、いつまでできるのかよくわからない。子どもはそのうち親と出かけるより、自分の世界のほうが忙しくなるだろう。そう思うと少ししみじみするが、しみじみしすぎるのも私らしくないので、ひとまず風呂上がりにのんびりできたことを喜ぶことにした。

たった二回目の阪急アワーズインは、やはりまだ定宿ではない。ないのだが、こちらが勝手にそう思って少し安心しているのだから、それでいいのである。旅の満足なんて案外そんなもので、立派な思い出より、見覚えのある廊下と大きい風呂があれば、もう十分なのだと思う。

Google Pixel 10a 下取り iPhone 13 クーポン お得計算で心がざわつく話

このところ、Google Pixel 10aがお得らしい、という話が頭のすみでずっとモゾモゾしている。
一括価格は79,900円(税込)。そこにストアポイント10,000円分がついて、さらにメルマガ会員には5,000円相当の上乗せがあるらしい。つまり、うまく乗れば「実質かなり安い」という、私のような人間がいちばん弱い言い方になっているのである。Google ストアの発売記念施策としては、4月27日までポイント還元や下取り増額が出ているようだ。

こういう「実質」という言葉は、昔から妙に私の心をつかむ。
実質と聞くと、なんだか現実の財布の口がゆるむのだ。だが、よく考えると、実質というのはだいたい、今この場で安いというより、あとからじわっと安かったことにされる仕組みである。私はこの“あとからじわっと”に何度もやられてきた。ポイントをもらった瞬間、なぜか次の買い物をする気になってしまう。あれは買い物ではなく、買い物の呼び水なのだと思う。

しかも今回、話はそこでは終わらない。
下取りでiPhone 13が30,100円くらいになる、という話を聞くと、持っていないのに急に欲しくなる。持っていないものを、下取りのために買うという発想がもう少しおかしいのだが、お得の前では人はわりと平気で遠回りを選ぶ。ゲオモバイルでは中古iPhone 13 128GBがMNPで11,000円からという案内が出ていて、ワイモバイル系でも19,800円前後の線はたしかに見える。だから「安く仕入れて、高く下取ってもらえば勝ちでは」と考え始めるわけである。

しかし、こういう時の私は、だいたい途中で見落としをする。
事務手数料だの、回線契約の条件だの、状態Bだの、バッテリー残量だの、MNPの手間だの、世の中は私のような浅い計算を静かに妨害する部品で満ちている。しかも今回、Google ストア側で高額下取りの例として目立っているのは「iPhone 13」そのものではなく、「iPhone 13 mini」やPixel 8aの30,100円であるらしい。このへんをふわっと読んで「13なら全部そうだろう」と思いこむと、あとでスマホを握りしめて遠い目をすることになる。私はそういう遠い目を、過去に何度もしてきた。

それでも、こういう計算をしている時間は妙に楽しい。
買う前がいちばん楽しい、というのは家電にもお菓子にも共通している。まだ手に入れていないから、欠点が見えないのだ。人間関係みたいで少し嫌である。

結局のところ、Pixel 10aがお得かどうかより、私は「お得を完成させるために別のスマホを買う自分」をどこまで許せるかで悩んでいるのだと思う。
ここまでくると節約なのか遊びなのかよくわからない。たぶん両方で、半分くらいは趣味だ。なので、こういう話の結論はいつも同じである。
安く買うために余計なことを始める人は、だいたいもう負けかけているのだ。

(追記)アドバイスをもらった。ワイモバイルなら10aを2年レンタルで24円+事務手数料3,300円で2年使えるらしい。回線契約までして端末を仕入れるならこっちの方がいいかもしれない。

 

【広島駅直結 ホテルグランヴィア広島 宿泊記】WESTERポイントで泊まる、4ベッド客室とラウンジの平和な幸福

ポイントというものは、不思議なものである。貯めているあいだは、なんとなく心の支えになるのに、使う段になると急に惜しくなる。まるで、引き出しにしまってある「いつか使うかもしれない輪ゴム」みたいなもので、持っているだけで安心するのだ。しかし私は今回、そのありあまるWESTERポイントをついに放出し、広島駅直結のホテルグランヴィア広島に宿泊してきた。こう書くとたいへん景気のいい人のようだが、実際は「ポイントでなら泊まれる」という、いささか庶民的な事情なのである。

泊まったのは、tsudoi-4Bという部屋だった。名前からして、すでに集まりを前提としている感じがある。「つどい」と言われると、なんだか親戚一同が法事のあとにお茶を飲む部屋みたいでもあるが、実際これはなかなか珍しい4ベッドの客室である。

シティホテルというのは、だいたい2名定員でできている気がする。世の中には家族連れがこんなにいるのに、ホテルの部屋だけが妙に「仲よく2人でどうぞ」という顔をしているのが不思議だ。家族旅行になると、たいてい2部屋に分かれることになる。そうなると、子どもの組み合わせをどうするかとか、誰がどっちの部屋に行くかとか、ちょっとした会議が発生する。そしてたいてい、最後にどこかへ追いやられる人がいる。だいたいお父さんである。

しかも、そういうときに出てくるエキストラベッドというものは、どうにも「申し訳程度」に置かれている雰囲気がある。寝られないことはないが、堂々とは寝にくい。正規メンバーのベッドたちが、きちんとした顔で並んでいる横で、一台だけ「今日は私でがまんしてください」という顔をしているのである。あれに寝るお父さんは、旅行先でもどこか仮住まい感がある。気の毒だなと思う。

その点、このtsudoi-4Bはよかった。4ベッド、しかも全部正規のベッド。誰ひとり、臨時採用の寝床に回されないのである。家族全員が一つの部屋で、しかも全員が対等に眠れる。これはかなり大きい。寝る場所の平等というのは、家族の平和に直結していると思う。大げさではなく、本当にそうなのだ。

私などは、ホテルに泊まると部屋の間取りやベッドの並びを見ただけで、妙にうれしくなる性質がある。子どものころも、親に連れられて泊まった旅館で、布団がずらりと並ぶのを見るだけでテンションが上がっていた。あの「今日はここで全員寝るんだ」という感じが好きなのだと思う。修学旅行ほど大げさではなく、でも日常ではない。あの少しだけ落ち着かない感じが、私はわりと好きなのである。

しかも今回はラウンジアクセス付きである。これはもう、ポイント宿泊なのに気分だけはだいぶ上流である。ティータイムやカクテルタイムが楽しめるので、ラウンジに行くだけで「自分は今、きちんと休んでいる」という顔ができる。普段の私は、家でお茶を飲んでいても、どこか「ついでに洗濯物たたまなきゃ」という顔つきになってしまうのだが、ラウンジにいると不思議とただ座っていても許される。椅子と空間の力はすごい。

カクテルタイムには、広島の地ビールや地酒をいろいろ楽しめて、私はたいへん満足だった。こういうとき、人はすぐ「飲み比べ」という言葉を使いたがるが、私も例にもれずしっかり飲み比べた。地ビールというのは、それぞれちゃんと個性があるようでいて、数杯飲むと最終的には全部「おいしい」の一言にまとまるところが、なんだか人間らしいと思う。地酒も同じである。細かい違いを語れるほど繊細ではないが、旅先で飲む酒は、それだけで少しおいしい。景色もつまみのうちなのだろう。

朝食もまたよかった。ラウンジ会場で、ステーキやオムレツをテーブルオーダーできるのである。朝からステーキと聞くと、一瞬ひるむ人もいるかもしれないが、旅先ではそういう常識がゆるむ。むしろ「朝からステーキを食べている自分」に酔えるので、これは一種のイベントである。しかもスパークリングワインまで飲める。朝食会場で泡の立つグラスを持っていると、ただの朝ごはんが急に「優雅な朝」になるから不思議だ。家で同じことをしたら、かなり心配されるのに、ホテルだと許される。場所というのは本当に大事である。

そんなわけで、ホテルグランヴィア広島での宿泊はかなり満ち足りたものだった。広島駅直結という便利さもありがたいし、4ベッドの安心感もあるし、ラウンジでは地のものを楽しめる。家族みんなで一部屋に泊まれて、誰もエキストラベッド送りにならず、朝からスパークリングワインまで飲めるのだから、これはもう小さな平和条約みたいなものだと思う。

やはりポイントは、貯めて眺めるより使ったほうがいい。そう頭ではわかっているのだが、また次もたぶん「もったいないな」と思いながら貯めるのだろう。人間は学ばない。しかし、その学ばなさのおかげで、また次の楽しみもできるのだから、まあそれでいいのである。

ちなみに、ホテルはJR広島駅直結で良いホテルだった。ポイント抜きにもまた泊まりたいと思えるクオリティだったことは申し添えておく。ちなみに北口と南口にそれぞれ「グランヴィア」と付くホテルがあるので行かれる際はご注意ください。

参考:ホテルグランヴィア広島に泊まる(楽天トラベル)

参考: WESTERポイントのお得な貯め方と使い方、交換ルート解説 ポイント特典きっぷやホテル宿泊券がお得 

【2026年3月 アフィリエイト報告】放置ブログを日記として復活させた私の広告収入が、あまりにも駄菓子みたいな額だった件

ブログというものは、しばらく放っておくと、なんとなく押し入れの奥にしまった健康器具みたいな気配を出してくる。使おうと思って買ったのに、気づけば上に別の荷物が積まれ、存在だけがうっすらしているのである。私にとってこのブログも、まさにそういう感じで、だいぶ長いこと放置されていた。

それが最近になって、なぜだかまた書こうという気になった。別に志が高まったわけでもないし、世界に向けて何かを訴えたくなったわけでもない。ただ、自分の日記として復活させるのも悪くないな、と思ったのである。人間、年をとると、自分が昨日何を食べたのかすら怪しくなってくる。ブログでも書いておけば、少なくとも「ああ、この頃の私はこんなことを考えていたのか」とあとで見返せる。見返して感心するような内容ではないが、何も残っていないよりはマシなのだ。

そしてこのブログには、読者もご存知のとおり、多少なりとも広告が貼ってある。多少なりとも、という言い方がいちばんしっくりくる。昔のように、ぎらぎらした目で「ここに広告、あそこにも広告」と詰め込んでいた時代とは違う。あの頃の私は、ネットの海の向こうに金脈が埋まっていると本気で思っていた節がある。今思うと、スーパーのチラシを握りしめて走るおばちゃんくらい必死だった。いや、おばちゃんに失礼かもしれない。おばちゃんはちゃんと成果を出している。

今はそこまでゴリゴリにアフィリエイトをするつもりはない。ないのだが、多少なりの収入があると、やはりうれしいのである。サラリーマンにとって副収入ほどありがたいものはない。毎月きっちり働いて、きっちり税金やら何やら引かれて、「はい、今月もお疲れさまでした」と言われても、財布の中身はたいしてふくらまない。その横から、ぽとりと小銭でも落ちてくると、人は妙に機嫌がよくなるものだ。たとえその小銭が、自販機の下をのぞき込んで見つけた10円玉みたいな額でもである。

ということで、発表しよう。このブログ記事のメイン広告、2026年3月の結果である。

8829回表示。
41回広告クリック。
報酬21円。

バーン、である。

いや、バーンじゃないのである。
21円でバーンと言われても、火薬が足りない。せいぜい「ポスッ」である。湿気たかんしゃく玉くらいの勢いしかない。

計算してみると、1クリックあたり約0.5円。私はこの数字を見たとき、なんとも言えない気持ちになった。0.5円というのは、もはやお金としての輪郭が薄い。半円玉がない以上、現実世界では単独で存在できない額である。つまり広告が1回クリックされるたびに、私は現実に存在しないものを受け取っているのだ。そう思うと少しかっこいいが、実際は全然かっこよくない。

昔、子どもの頃に駄菓子屋で「10円あればけっこう買える」と思っていた時代があった。あの頃の私に21円を見せたら、たぶん小躍りしたと思う。しかし今の私は、21円を見ても小躍りしない。コンビニでレジ横の募金箱に入れるかどうか一瞬迷うくらいの額である。人は大人になると夢を失うのではなく、21円への感受性を失うのかもしれない。

それでも、ゼロではないのである。ここが妙に大事だ。放置していたブログに広告を貼って、誰かが見て、誰かがクリックして、その結果として21円が生まれた。そう考えると、なんだか道ばたに咲いた雑草みたいで健気ではある。誰に頼まれたわけでもないのに、勝手に生えて勝手にがんばっている感じが、今のこのブログにはある。

もちろん、このペースでは最低受取額に到達するまで何年もかかりそうだ。下手をすると、受け取る前にサービスが終わるか、私のやる気がまたどこかへ行くか、どちらかである。そう考えるとずいぶん頼りない話だが、まあいいのよ、と思う。日記のついでに21円がついてくると思えば、ないよりはだいぶいい。期待しすぎるからがっかりするのであって、最初から「駄菓子一個ぶんにもならないかも」と思っていれば、21円でも意外と健闘しているように見える。

人生もたぶんそんなものなのだ。大きな花火を期待していたら、湿った音しかしないことがある。でも、音がしただけでも一応よしとするしかない。私の3月のアフィリエイトは、そんな感じだった。

つまり今月の結論としては、ブログは復活した。広告も一応働いた。私は21円を得た。
そして21円では何も買えないが、話のネタにはなったのである。

dポイント増量交換・PeX交換上限で失敗した3月末 ポイ活マニアがまた期限を忘れた話

三月の末というのは、どうも人を落ち着かなくさせる。
カレンダーの数字がやけに切迫して見えるし、なんとなく「今月じゅう」「年度内」「月末まで」といった言葉が、冷蔵庫の奥でしなしなになった野菜のように、こちらに存在感を放ってくるのである。

私はこの時期になると、世間の人が思う以上にポイントのことを考えている。
花見とか新生活とか、そういうきらびやかな話ではない。dポイント増量交換である。私のようなポイ活マニアにとって、これはもはや季節の行事というより、朝起きたら顔を洗う、くらいの日常に近い。ポイントを交換するだけで10%増える。しかもdポイントは日興フロッギーで実質換金できるのだから、気分としては、空き地に置いてあった段ボールを拾ったら中に千円札が入っていた、みたいな感じである。かなりうれしい。

だから今回も、私は当然のように動いた。
いつものように、ぬかりなく、手慣れた感じで、少し得意げですらあった。こういうときの私は、自分のことをかなり賢い人間だと思っている。実際には、ポイントの通り道だけに詳しい、ずいぶん偏った大人なのだが、そのときは見えないのである。

PeXに移したポイントは三百万。
数字だけ見ると、なんだか小さな成金みたいで気分がいい。画面の中の数字なのに、急に自分が経済を回している人のような顔つきになる。べつに回してはいない。ただ右から左に動かしているだけである。

ところがである。
私は、肝心なことを忘れていた。
PeXには交換上限があり、一日に百万、いや百万人分でもなく、百ポイントでもなく、百“万”ポイントしか動かせないのだ。三百万あるのに、一日百万。つまり、三日かかる。月末に気づいた私には、その三日がない。ないものはないのである。

※注記:PeXは10P=1円相当である

この瞬間、頭の中で、ああまたか、という音がした。
べつに実際に鳴ったわけではないが、かなりはっきり聞こえた気がした。私はこういう「あと一歩の凡ミス」を、驚くほど定期的にやる。以前も、増量交換のエントリーを忘れて、見事に増量されないという、目も当てられない失敗をしたばかりである。あのときは、準備万端で遠足に来たのに、肝心のリュックを家に置いてきたような気持ちになった。いや、遠足ならまだ笑えるが、ポイントは笑ってくれない。

それなのに、今回もまたこれである。
学習しない男、と書くと少し文学的だが、要するにうっかりしているだけだ。しかも私は、こういう失敗をしたあと、必ず「次はちゃんとやろう」と思う。その“思う”までは非常によくできる。問題はその先で、次になると、前回の自分の決意など、風呂あがりの湯気くらいの速さで消えているのだ。

思えば、昔からそうだった。
夏休みの宿題も、八月の前半には「今年こそ計画的にやる」と固く誓い、後半になると工作の材料を探して家中をひっくり返していた。大人になれば少しはましになると思っていたが、対象が宿題からポイントに変わっただけで、やっていることはほとんど同じである。人は成長するというが、案外、形を変えて同じところをぐるぐる回っているだけなのかもしれない。ハムスターの回し車みたいなものだ。しかも私の回し車には、dポイントとPeXのロゴが貼ってある。

もっとも、今回の失敗はまだましである。
前回のように、エントリー忘れでまるごと増量されない、という致命傷ではない。今回は、次回に回せばいいだけだ。そう思えば、腹も立たない。立たないどころか、「まあ許せるか」という気分にすらなる。人間は比較対象があると急に寛大になるものらしい。ひどい失敗のあとだと、少しひどい失敗はかわいく見える。これは成長ではなく、たぶん感覚が麻痺しているのだと思う。

三月末には、いろいろな期限がある。
そのたび私は、忘れないようにしよう、余裕を持とう、確認しよう、と毎年のように思う。だが、結局ぎりぎりになってから慌てるのである。そういう自分にあきれながら、それでもまたポイントを動かしている。
なんだかんだ言って、私はこういう細かいことで一喜一憂するのが好きなのだろう。

だからたぶん、次もまた参加する。
そしてまた何かを忘れる気もする。
もうここまでくると、ポイ活というより、うっかりの定期観測なのかもしれない。
増えるのはポイントだけで十分なのだが、失敗まで増やしているのだから、まったく困ったものである。

AI活用術・ChatGPT・Claude・Gemini・Perplexity・Grokで実践するMAGIシステム風仕事術

最近、私はAIで遊んでいるのか働いているのか、だんだんわからなくなってきた。たぶん両方なのだと思う。最初はちょっとした興味だったのである。「へえ、文章を書いてくれるんだ」と軽い気持ちでさわったのに、気づけば仕事でも使っている。こういうものは、だいたい最初の一歩がゆるい。ダイエット器具も英会話アプリも、最初だけはやる気に満ちているのだが、AIだけはなぜか生き残っている。人間のほうが根負けしたのかもしれない。

世の中にはいろんなAIがある。ChatGPT、Gemini、Perplexity、Claude、Grokなど、名前だけ見ると外国の強そうな人たちの集まりみたいである。私は最初、この名前をちゃんと覚えるだけで少し疲れた。GeminiのことをGemimiと書いてしまったりして、AIを使う前にまず自分の記憶力のあやしさと向き合うことになる。未来の道具を使っているのに、使っている本人はかなり昔ながらのうっかり人間なのだ。

それで最近、難しい問題を考えるときに、ちょっとおもしろいやり方をしている。エヴァンゲリオンのMAGIシステムみたいなことを、AIでそれっぽくやるのである。といっても、べつに秘密基地があるわけでもないし、部屋が赤く光るわけでもない。ただ同じ質問を三つくらいのAIに投げるだけだ。やっていることは地味である。見た目は地味だが、気分だけはだいぶ大げさになる。「いま私は複数の知性を統合している」と思うと、少しだけえらくなった気がする。たぶん気のせいである。

昔、なにか迷ったときに、母と父と自分の三人に聞けば答えが出る、みたいな時代があった。いや、正確には父はあまり答えを出さず、「まあ好きにしろ」と言う係だった気もするが、とにかく人は昔から、ひとりの意見だけでは心もとないと思っていたのだろう。学校でも、ひとりに聞いてだめなら別の子に聞いたし、店でも一軒目で決めずに二軒目を見た。そう考えると、AIを三つ並べて考えさせるのは、意外と庶民的な行為なのかもしれない。未来っぽいのに、やっていることは近所づきあいみたいなものだ。

しかもAIというのは、それぞれ少しずつ性格が違うように見える。こっちはまじめ、あっちは勢いがある、こっちは説明が細かい、あっちは妙に自信満々、などである。もちろん本当に性格があるわけではないのだろうが、人間というのはすぐ相手にキャラをつけたがる。私はたぶん、電卓を三台並べても「この子は堅実」くらい言い出すタイプである。そういう自分を見ていると、便利な道具を使っているはずなのに、最後は人間の勝手な思い込みで世界を整理している。なんだかいつもの私である。

三つのAIに同じ問いを出して、それぞれの答えを見比べる。すると、共通している部分が見えてくるし、逆に怪しいところも浮いてくる。ひとりだけ変な方向に全力疾走している答えがあったりして、それはそれでおもしろい。会議でも三人に聞くと、一人くらい話を広げすぎる人がいるが、あれに似ている。AIの世界でもそういうことが起こるのを見ると、私は少し安心する。完璧な知性ばかりだと、こちらのぼんやりした頭が肩身のせまい思いをするからである。

このやり方で進めると、けっこう精度のいい答えが返ってくる。少なくとも、ひとつだけを信じて突っ走るよりは、だいぶ足元がしっかりする感じがある。とはいえ、最後にまとめるのは自分なので、そこで急に私の雑さが顔を出す。せっかく三人の優等生が材料をそろえてくれたのに、盛りつける人が私なので、完成品が少しだけ台なしになるのである。これではMAGIというより、賢い人たちに支えられた不器用な係長である。

でも、たぶんそれでいいのだと思う。AIが何人いても、最後に「じゃあ私はどうするのか」を決めるのは自分である。三つの頭脳を借りても、こっちの頭が急によくなるわけではない。けれど、少しは慎重になれるし、少しは見落としが減る。それだけでも十分ありがたい。

結局のところ、私は未来のすごい仕組みを使っているようでいて、やっていることは「みんなに聞いてから決める」という、ずいぶん昔からある方法なのだ。人間は昔も今も、ひとりでは不安なのである。だから三人分の知恵を借りる。借りたところで、最後はだいたい自分らしい雑な結論に落ち着くのだが、それもまた私なのである。

星野ロミ SocialXup「アカウントパワー診断」でD級判定された私の、Xアカウントのささやかな誇り

私はなんとなく、ぼんやりとネットを見ていた。こういう「なんとなく」の時間というのは、実にするすると過ぎていくもので、気づけば自分でも何を探していたのかわからなくなる。冷蔵庫を開けたのに、何を取りに来たのか忘れるのと同じである。インターネットというものは、巨大な冷蔵庫みたいなものなのだと思う。入っている物は多いのに、結局いつもの物しか見ない。

そんな時、漫画村事件で知られる星野ロミ氏が、SocialXupの新機能として「アカウントパワー診断」を公開した、という話を見かけた。XのアカウントIDを入れるだけで、0〜100点のスコアが出て、A〜Eのランクまで表示されるらしい。しかも自分だけでなく、他人のアカウントも診断できるという。なかなか遠慮のない機能である。

人はなぜ、点数をつけられると急に落ち着かなくなるのか。
学校のテストでも、健康診断でも、占いでもそうだが、数字やランクで自分が示されると、べつに頼んでもいないのに心がザワザワする。私は昔、体力測定で握力がえらく低く、紙パックのジュースすら頼りなく持っている感じの数値を出したことがある。それ以来、自分は何かを測られるたびに、だいたい弱そうな結果になる人間なのだという、うすぼんやりした自己認識がある。

とはいえ、やるのである。こういうものは、結局やる。やらないという選択肢を取れるほど、私はネットに対して達観していない。

そして診断結果は、19点。100点満点で19点。ランクはDであった。

D級か。

この「D級」という響きが、じわじわおかしい。通知表ならかなり困るが、アルファベットでランクをつけられると、なぜか少しマンガっぽくなるのである。私の頭にはすぐに『幽遊白書』が浮かんだ。妖怪の強さがS級だのA級だのと判定される、あの感じである。そう思った瞬間、19点という現実が少しだけ娯楽に変わった。人は解釈で生きている。

D級と聞くと、なんとなく「下のほう」という気がする。しかしマンガ基準で考えると、初登場時の蔵馬や飛影あたりなのではないか、という都合のいい連想が始まる。ここが私のよくないところで、現実の低評価をフィクションの文脈で持ち上げて納得しようとする癖がある。テストで60点を取っても「赤点じゃないから」と言い張るタイプである。もっと前向きなのか、もっと後ろ向きなのか、自分でもよくわからない。

それにしても、アカウントの力とは何なのだろう。フォロワーの数なのか、反応の良さなのか、発言の影響力なのか。あるいは毎日こつこつ何かを言っている執念のようなものなのか。もし執念なら、私はそこそこ点をもらえる気もするが、世の中はそんなに甘くない。執念だけで高得点が取れるなら、夜中に自分の投稿を見返して「これ、何が言いたかったんだろう」と思っている人間にも光が当たるはずである。

詳細グラフまで出るのも、なかなか本格的で少し怖い。グラフというのは不思議なもので、棒だの線だの円だのにされるだけで、妙に言い逃れができなくなる。数字だけなら「まあ、たまたまかな」と思えるのに、グラフになると「あなたの傾向はこうです」と静かに言い渡される感じがある。無機質なくせに、妙に迫ってくる。グラフは親切そうに見えて、案外容赦がない。

しかし19点でD級という結果を見ているうちに、だんだん腹も立たなくなってきた。むしろ、変に中途半端な点数より味がある気さえしてくる。65点くらいだと、なんとなく現実的でコメントに困るが、19点までいくと、もうひとつの個性みたいな顔をしてくる。ここまでくると、弱いなりに筋が通っている感じすらある。通っていないのかもしれないが、そう思うことにした。

結局私は、D級判定を見ながら、初登場時の蔵馬や飛影を勝手に仲間にして満足した。非常に図々しい話である。でも、ネットの診断結果なんて、そのくらい勝手に受け止めたほうが気が楽なのだと思う。

19点の私にも、19点なりの居場所はあるのだろう。たぶん。
少なくとも、いきなり消し飛ぶわけではない。
そう考えると、D級もそんなに悪くないのである。むしろ少し、マンガみたいでいい。