【広島駅直結 ホテルグランヴィア広島 宿泊記】WESTERポイントで泊まる、4ベッド客室とラウンジの平和な幸福

ポイントというものは、不思議なものである。貯めているあいだは、なんとなく心の支えになるのに、使う段になると急に惜しくなる。まるで、引き出しにしまってある「いつか使うかもしれない輪ゴム」みたいなもので、持っているだけで安心するのだ。しかし私は今回、そのありあまるWESTERポイントをついに放出し、広島駅直結のホテルグランヴィア広島に宿泊してきた。こう書くとたいへん景気のいい人のようだが、実際は「ポイントでなら泊まれる」という、いささか庶民的な事情なのである。

泊まったのは、tsudoi-4Bという部屋だった。名前からして、すでに集まりを前提としている感じがある。「つどい」と言われると、なんだか親戚一同が法事のあとにお茶を飲む部屋みたいでもあるが、実際これはなかなか珍しい4ベッドの客室である。

シティホテルというのは、だいたい2名定員でできている気がする。世の中には家族連れがこんなにいるのに、ホテルの部屋だけが妙に「仲よく2人でどうぞ」という顔をしているのが不思議だ。家族旅行になると、たいてい2部屋に分かれることになる。そうなると、子どもの組み合わせをどうするかとか、誰がどっちの部屋に行くかとか、ちょっとした会議が発生する。そしてたいてい、最後にどこかへ追いやられる人がいる。だいたいお父さんである。

しかも、そういうときに出てくるエキストラベッドというものは、どうにも「申し訳程度」に置かれている雰囲気がある。寝られないことはないが、堂々とは寝にくい。正規メンバーのベッドたちが、きちんとした顔で並んでいる横で、一台だけ「今日は私でがまんしてください」という顔をしているのである。あれに寝るお父さんは、旅行先でもどこか仮住まい感がある。気の毒だなと思う。

その点、このtsudoi-4Bはよかった。4ベッド、しかも全部正規のベッド。誰ひとり、臨時採用の寝床に回されないのである。家族全員が一つの部屋で、しかも全員が対等に眠れる。これはかなり大きい。寝る場所の平等というのは、家族の平和に直結していると思う。大げさではなく、本当にそうなのだ。

私などは、ホテルに泊まると部屋の間取りやベッドの並びを見ただけで、妙にうれしくなる性質がある。子どものころも、親に連れられて泊まった旅館で、布団がずらりと並ぶのを見るだけでテンションが上がっていた。あの「今日はここで全員寝るんだ」という感じが好きなのだと思う。修学旅行ほど大げさではなく、でも日常ではない。あの少しだけ落ち着かない感じが、私はわりと好きなのである。

しかも今回はラウンジアクセス付きである。これはもう、ポイント宿泊なのに気分だけはだいぶ上流である。ティータイムやカクテルタイムが楽しめるので、ラウンジに行くだけで「自分は今、きちんと休んでいる」という顔ができる。普段の私は、家でお茶を飲んでいても、どこか「ついでに洗濯物たたまなきゃ」という顔つきになってしまうのだが、ラウンジにいると不思議とただ座っていても許される。椅子と空間の力はすごい。

カクテルタイムには、広島の地ビールや地酒をいろいろ楽しめて、私はたいへん満足だった。こういうとき、人はすぐ「飲み比べ」という言葉を使いたがるが、私も例にもれずしっかり飲み比べた。地ビールというのは、それぞれちゃんと個性があるようでいて、数杯飲むと最終的には全部「おいしい」の一言にまとまるところが、なんだか人間らしいと思う。地酒も同じである。細かい違いを語れるほど繊細ではないが、旅先で飲む酒は、それだけで少しおいしい。景色もつまみのうちなのだろう。

朝食もまたよかった。ラウンジ会場で、ステーキやオムレツをテーブルオーダーできるのである。朝からステーキと聞くと、一瞬ひるむ人もいるかもしれないが、旅先ではそういう常識がゆるむ。むしろ「朝からステーキを食べている自分」に酔えるので、これは一種のイベントである。しかもスパークリングワインまで飲める。朝食会場で泡の立つグラスを持っていると、ただの朝ごはんが急に「優雅な朝」になるから不思議だ。家で同じことをしたら、かなり心配されるのに、ホテルだと許される。場所というのは本当に大事である。

そんなわけで、ホテルグランヴィア広島での宿泊はかなり満ち足りたものだった。広島駅直結という便利さもありがたいし、4ベッドの安心感もあるし、ラウンジでは地のものを楽しめる。家族みんなで一部屋に泊まれて、誰もエキストラベッド送りにならず、朝からスパークリングワインまで飲めるのだから、これはもう小さな平和条約みたいなものだと思う。

やはりポイントは、貯めて眺めるより使ったほうがいい。そう頭ではわかっているのだが、また次もたぶん「もったいないな」と思いながら貯めるのだろう。人間は学ばない。しかし、その学ばなさのおかげで、また次の楽しみもできるのだから、まあそれでいいのである。

ちなみに、ホテルはJR広島駅直結で良いホテルだった。ポイント抜きにもまた泊まりたいと思えるクオリティだったことは申し添えておく。ちなみに北口と南口にそれぞれ「グランヴィア」と付くホテルがあるので行かれる際はご注意ください。

参考:ホテルグランヴィア広島に泊まる(楽天トラベル)

参考: WESTERポイントのお得な貯め方と使い方、交換ルート解説 ポイント特典きっぷやホテル宿泊券がお得 

【2026年3月 アフィリエイト報告】放置ブログを日記として復活させた私の広告収入が、あまりにも駄菓子みたいな額だった件

ブログというものは、しばらく放っておくと、なんとなく押し入れの奥にしまった健康器具みたいな気配を出してくる。使おうと思って買ったのに、気づけば上に別の荷物が積まれ、存在だけがうっすらしているのである。私にとってこのブログも、まさにそういう感じで、だいぶ長いこと放置されていた。

それが最近になって、なぜだかまた書こうという気になった。別に志が高まったわけでもないし、世界に向けて何かを訴えたくなったわけでもない。ただ、自分の日記として復活させるのも悪くないな、と思ったのである。人間、年をとると、自分が昨日何を食べたのかすら怪しくなってくる。ブログでも書いておけば、少なくとも「ああ、この頃の私はこんなことを考えていたのか」とあとで見返せる。見返して感心するような内容ではないが、何も残っていないよりはマシなのだ。

そしてこのブログには、読者もご存知のとおり、多少なりとも広告が貼ってある。多少なりとも、という言い方がいちばんしっくりくる。昔のように、ぎらぎらした目で「ここに広告、あそこにも広告」と詰め込んでいた時代とは違う。あの頃の私は、ネットの海の向こうに金脈が埋まっていると本気で思っていた節がある。今思うと、スーパーのチラシを握りしめて走るおばちゃんくらい必死だった。いや、おばちゃんに失礼かもしれない。おばちゃんはちゃんと成果を出している。

今はそこまでゴリゴリにアフィリエイトをするつもりはない。ないのだが、多少なりの収入があると、やはりうれしいのである。サラリーマンにとって副収入ほどありがたいものはない。毎月きっちり働いて、きっちり税金やら何やら引かれて、「はい、今月もお疲れさまでした」と言われても、財布の中身はたいしてふくらまない。その横から、ぽとりと小銭でも落ちてくると、人は妙に機嫌がよくなるものだ。たとえその小銭が、自販機の下をのぞき込んで見つけた10円玉みたいな額でもである。

ということで、発表しよう。このブログ記事のメイン広告、2026年3月の結果である。

8829回表示。
41回広告クリック。
報酬21円。

バーン、である。

いや、バーンじゃないのである。
21円でバーンと言われても、火薬が足りない。せいぜい「ポスッ」である。湿気たかんしゃく玉くらいの勢いしかない。

計算してみると、1クリックあたり約0.5円。私はこの数字を見たとき、なんとも言えない気持ちになった。0.5円というのは、もはやお金としての輪郭が薄い。半円玉がない以上、現実世界では単独で存在できない額である。つまり広告が1回クリックされるたびに、私は現実に存在しないものを受け取っているのだ。そう思うと少しかっこいいが、実際は全然かっこよくない。

昔、子どもの頃に駄菓子屋で「10円あればけっこう買える」と思っていた時代があった。あの頃の私に21円を見せたら、たぶん小躍りしたと思う。しかし今の私は、21円を見ても小躍りしない。コンビニでレジ横の募金箱に入れるかどうか一瞬迷うくらいの額である。人は大人になると夢を失うのではなく、21円への感受性を失うのかもしれない。

それでも、ゼロではないのである。ここが妙に大事だ。放置していたブログに広告を貼って、誰かが見て、誰かがクリックして、その結果として21円が生まれた。そう考えると、なんだか道ばたに咲いた雑草みたいで健気ではある。誰に頼まれたわけでもないのに、勝手に生えて勝手にがんばっている感じが、今のこのブログにはある。

もちろん、このペースでは最低受取額に到達するまで何年もかかりそうだ。下手をすると、受け取る前にサービスが終わるか、私のやる気がまたどこかへ行くか、どちらかである。そう考えるとずいぶん頼りない話だが、まあいいのよ、と思う。日記のついでに21円がついてくると思えば、ないよりはだいぶいい。期待しすぎるからがっかりするのであって、最初から「駄菓子一個ぶんにもならないかも」と思っていれば、21円でも意外と健闘しているように見える。

人生もたぶんそんなものなのだ。大きな花火を期待していたら、湿った音しかしないことがある。でも、音がしただけでも一応よしとするしかない。私の3月のアフィリエイトは、そんな感じだった。

つまり今月の結論としては、ブログは復活した。広告も一応働いた。私は21円を得た。
そして21円では何も買えないが、話のネタにはなったのである。

dポイント増量交換・PeX交換上限で失敗した3月末 ポイ活マニアがまた期限を忘れた話

三月の末というのは、どうも人を落ち着かなくさせる。
カレンダーの数字がやけに切迫して見えるし、なんとなく「今月じゅう」「年度内」「月末まで」といった言葉が、冷蔵庫の奥でしなしなになった野菜のように、こちらに存在感を放ってくるのである。

私はこの時期になると、世間の人が思う以上にポイントのことを考えている。
花見とか新生活とか、そういうきらびやかな話ではない。dポイント増量交換である。私のようなポイ活マニアにとって、これはもはや季節の行事というより、朝起きたら顔を洗う、くらいの日常に近い。ポイントを交換するだけで10%増える。しかもdポイントは日興フロッギーで実質換金できるのだから、気分としては、空き地に置いてあった段ボールを拾ったら中に千円札が入っていた、みたいな感じである。かなりうれしい。

だから今回も、私は当然のように動いた。
いつものように、ぬかりなく、手慣れた感じで、少し得意げですらあった。こういうときの私は、自分のことをかなり賢い人間だと思っている。実際には、ポイントの通り道だけに詳しい、ずいぶん偏った大人なのだが、そのときは見えないのである。

PeXに移したポイントは三百万。
数字だけ見ると、なんだか小さな成金みたいで気分がいい。画面の中の数字なのに、急に自分が経済を回している人のような顔つきになる。べつに回してはいない。ただ右から左に動かしているだけである。

ところがである。
私は、肝心なことを忘れていた。
PeXには交換上限があり、一日に百万、いや百万人分でもなく、百ポイントでもなく、百“万”ポイントしか動かせないのだ。三百万あるのに、一日百万。つまり、三日かかる。月末に気づいた私には、その三日がない。ないものはないのである。

※注記:PeXは10P=1円相当である

この瞬間、頭の中で、ああまたか、という音がした。
べつに実際に鳴ったわけではないが、かなりはっきり聞こえた気がした。私はこういう「あと一歩の凡ミス」を、驚くほど定期的にやる。以前も、増量交換のエントリーを忘れて、見事に増量されないという、目も当てられない失敗をしたばかりである。あのときは、準備万端で遠足に来たのに、肝心のリュックを家に置いてきたような気持ちになった。いや、遠足ならまだ笑えるが、ポイントは笑ってくれない。

それなのに、今回もまたこれである。
学習しない男、と書くと少し文学的だが、要するにうっかりしているだけだ。しかも私は、こういう失敗をしたあと、必ず「次はちゃんとやろう」と思う。その“思う”までは非常によくできる。問題はその先で、次になると、前回の自分の決意など、風呂あがりの湯気くらいの速さで消えているのだ。

思えば、昔からそうだった。
夏休みの宿題も、八月の前半には「今年こそ計画的にやる」と固く誓い、後半になると工作の材料を探して家中をひっくり返していた。大人になれば少しはましになると思っていたが、対象が宿題からポイントに変わっただけで、やっていることはほとんど同じである。人は成長するというが、案外、形を変えて同じところをぐるぐる回っているだけなのかもしれない。ハムスターの回し車みたいなものだ。しかも私の回し車には、dポイントとPeXのロゴが貼ってある。

もっとも、今回の失敗はまだましである。
前回のように、エントリー忘れでまるごと増量されない、という致命傷ではない。今回は、次回に回せばいいだけだ。そう思えば、腹も立たない。立たないどころか、「まあ許せるか」という気分にすらなる。人間は比較対象があると急に寛大になるものらしい。ひどい失敗のあとだと、少しひどい失敗はかわいく見える。これは成長ではなく、たぶん感覚が麻痺しているのだと思う。

三月末には、いろいろな期限がある。
そのたび私は、忘れないようにしよう、余裕を持とう、確認しよう、と毎年のように思う。だが、結局ぎりぎりになってから慌てるのである。そういう自分にあきれながら、それでもまたポイントを動かしている。
なんだかんだ言って、私はこういう細かいことで一喜一憂するのが好きなのだろう。

だからたぶん、次もまた参加する。
そしてまた何かを忘れる気もする。
もうここまでくると、ポイ活というより、うっかりの定期観測なのかもしれない。
増えるのはポイントだけで十分なのだが、失敗まで増やしているのだから、まったく困ったものである。

AI活用術・ChatGPT・Claude・Gemini・Perplexity・Grokで実践するMAGIシステム風仕事術

最近、私はAIで遊んでいるのか働いているのか、だんだんわからなくなってきた。たぶん両方なのだと思う。最初はちょっとした興味だったのである。「へえ、文章を書いてくれるんだ」と軽い気持ちでさわったのに、気づけば仕事でも使っている。こういうものは、だいたい最初の一歩がゆるい。ダイエット器具も英会話アプリも、最初だけはやる気に満ちているのだが、AIだけはなぜか生き残っている。人間のほうが根負けしたのかもしれない。

世の中にはいろんなAIがある。ChatGPT、Gemini、Perplexity、Claude、Grokなど、名前だけ見ると外国の強そうな人たちの集まりみたいである。私は最初、この名前をちゃんと覚えるだけで少し疲れた。GeminiのことをGemimiと書いてしまったりして、AIを使う前にまず自分の記憶力のあやしさと向き合うことになる。未来の道具を使っているのに、使っている本人はかなり昔ながらのうっかり人間なのだ。

それで最近、難しい問題を考えるときに、ちょっとおもしろいやり方をしている。エヴァンゲリオンのMAGIシステムみたいなことを、AIでそれっぽくやるのである。といっても、べつに秘密基地があるわけでもないし、部屋が赤く光るわけでもない。ただ同じ質問を三つくらいのAIに投げるだけだ。やっていることは地味である。見た目は地味だが、気分だけはだいぶ大げさになる。「いま私は複数の知性を統合している」と思うと、少しだけえらくなった気がする。たぶん気のせいである。

昔、なにか迷ったときに、母と父と自分の三人に聞けば答えが出る、みたいな時代があった。いや、正確には父はあまり答えを出さず、「まあ好きにしろ」と言う係だった気もするが、とにかく人は昔から、ひとりの意見だけでは心もとないと思っていたのだろう。学校でも、ひとりに聞いてだめなら別の子に聞いたし、店でも一軒目で決めずに二軒目を見た。そう考えると、AIを三つ並べて考えさせるのは、意外と庶民的な行為なのかもしれない。未来っぽいのに、やっていることは近所づきあいみたいなものだ。

しかもAIというのは、それぞれ少しずつ性格が違うように見える。こっちはまじめ、あっちは勢いがある、こっちは説明が細かい、あっちは妙に自信満々、などである。もちろん本当に性格があるわけではないのだろうが、人間というのはすぐ相手にキャラをつけたがる。私はたぶん、電卓を三台並べても「この子は堅実」くらい言い出すタイプである。そういう自分を見ていると、便利な道具を使っているはずなのに、最後は人間の勝手な思い込みで世界を整理している。なんだかいつもの私である。

三つのAIに同じ問いを出して、それぞれの答えを見比べる。すると、共通している部分が見えてくるし、逆に怪しいところも浮いてくる。ひとりだけ変な方向に全力疾走している答えがあったりして、それはそれでおもしろい。会議でも三人に聞くと、一人くらい話を広げすぎる人がいるが、あれに似ている。AIの世界でもそういうことが起こるのを見ると、私は少し安心する。完璧な知性ばかりだと、こちらのぼんやりした頭が肩身のせまい思いをするからである。

このやり方で進めると、けっこう精度のいい答えが返ってくる。少なくとも、ひとつだけを信じて突っ走るよりは、だいぶ足元がしっかりする感じがある。とはいえ、最後にまとめるのは自分なので、そこで急に私の雑さが顔を出す。せっかく三人の優等生が材料をそろえてくれたのに、盛りつける人が私なので、完成品が少しだけ台なしになるのである。これではMAGIというより、賢い人たちに支えられた不器用な係長である。

でも、たぶんそれでいいのだと思う。AIが何人いても、最後に「じゃあ私はどうするのか」を決めるのは自分である。三つの頭脳を借りても、こっちの頭が急によくなるわけではない。けれど、少しは慎重になれるし、少しは見落としが減る。それだけでも十分ありがたい。

結局のところ、私は未来のすごい仕組みを使っているようでいて、やっていることは「みんなに聞いてから決める」という、ずいぶん昔からある方法なのだ。人間は昔も今も、ひとりでは不安なのである。だから三人分の知恵を借りる。借りたところで、最後はだいたい自分らしい雑な結論に落ち着くのだが、それもまた私なのである。

星野ロミ SocialXup「アカウントパワー診断」でD級判定された私の、Xアカウントのささやかな誇り

私はなんとなく、ぼんやりとネットを見ていた。こういう「なんとなく」の時間というのは、実にするすると過ぎていくもので、気づけば自分でも何を探していたのかわからなくなる。冷蔵庫を開けたのに、何を取りに来たのか忘れるのと同じである。インターネットというものは、巨大な冷蔵庫みたいなものなのだと思う。入っている物は多いのに、結局いつもの物しか見ない。

そんな時、漫画村事件で知られる星野ロミ氏が、SocialXupの新機能として「アカウントパワー診断」を公開した、という話を見かけた。XのアカウントIDを入れるだけで、0〜100点のスコアが出て、A〜Eのランクまで表示されるらしい。しかも自分だけでなく、他人のアカウントも診断できるという。なかなか遠慮のない機能である。

人はなぜ、点数をつけられると急に落ち着かなくなるのか。
学校のテストでも、健康診断でも、占いでもそうだが、数字やランクで自分が示されると、べつに頼んでもいないのに心がザワザワする。私は昔、体力測定で握力がえらく低く、紙パックのジュースすら頼りなく持っている感じの数値を出したことがある。それ以来、自分は何かを測られるたびに、だいたい弱そうな結果になる人間なのだという、うすぼんやりした自己認識がある。

とはいえ、やるのである。こういうものは、結局やる。やらないという選択肢を取れるほど、私はネットに対して達観していない。

そして診断結果は、19点。100点満点で19点。ランクはDであった。

D級か。

この「D級」という響きが、じわじわおかしい。通知表ならかなり困るが、アルファベットでランクをつけられると、なぜか少しマンガっぽくなるのである。私の頭にはすぐに『幽遊白書』が浮かんだ。妖怪の強さがS級だのA級だのと判定される、あの感じである。そう思った瞬間、19点という現実が少しだけ娯楽に変わった。人は解釈で生きている。

D級と聞くと、なんとなく「下のほう」という気がする。しかしマンガ基準で考えると、初登場時の蔵馬や飛影あたりなのではないか、という都合のいい連想が始まる。ここが私のよくないところで、現実の低評価をフィクションの文脈で持ち上げて納得しようとする癖がある。テストで60点を取っても「赤点じゃないから」と言い張るタイプである。もっと前向きなのか、もっと後ろ向きなのか、自分でもよくわからない。

それにしても、アカウントの力とは何なのだろう。フォロワーの数なのか、反応の良さなのか、発言の影響力なのか。あるいは毎日こつこつ何かを言っている執念のようなものなのか。もし執念なら、私はそこそこ点をもらえる気もするが、世の中はそんなに甘くない。執念だけで高得点が取れるなら、夜中に自分の投稿を見返して「これ、何が言いたかったんだろう」と思っている人間にも光が当たるはずである。

詳細グラフまで出るのも、なかなか本格的で少し怖い。グラフというのは不思議なもので、棒だの線だの円だのにされるだけで、妙に言い逃れができなくなる。数字だけなら「まあ、たまたまかな」と思えるのに、グラフになると「あなたの傾向はこうです」と静かに言い渡される感じがある。無機質なくせに、妙に迫ってくる。グラフは親切そうに見えて、案外容赦がない。

しかし19点でD級という結果を見ているうちに、だんだん腹も立たなくなってきた。むしろ、変に中途半端な点数より味がある気さえしてくる。65点くらいだと、なんとなく現実的でコメントに困るが、19点までいくと、もうひとつの個性みたいな顔をしてくる。ここまでくると、弱いなりに筋が通っている感じすらある。通っていないのかもしれないが、そう思うことにした。

結局私は、D級判定を見ながら、初登場時の蔵馬や飛影を勝手に仲間にして満足した。非常に図々しい話である。でも、ネットの診断結果なんて、そのくらい勝手に受け止めたほうが気が楽なのだと思う。

19点の私にも、19点なりの居場所はあるのだろう。たぶん。
少なくとも、いきなり消し飛ぶわけではない。
そう考えると、D級もそんなに悪くないのである。むしろ少し、マンガみたいでいい。

無印良品週間とJQカードプレミアムデイズで博多駅(アミュプラザ)が修羅場になった日の話

たまたま休みの日になると、人は前の晩から少しだけ心が広くなる。明日は昼まで寝てやる、布団と一体化してやる、と私はかなり本気で思っていた。こういうときの私は、もう半分くらい布団の民なのである。

ところが現実はそう甘くなかった。朝、私はたたき起こされた。あまりにも急だったので、一瞬なにか大きな災害でも起きたのかと思ったが、そうではなかった。もっと家庭的で、もっと切実で、そして私にとってはかなり迷惑な用件だった。

「博多駅まで車を出してほしい」

理由を聞くと、今日はJQカードプレミアムデイズと無印良品週間が重複する特異日なのだという。特異日、と言われるとなんだか天体観測みたいで少しかっこいいが、要するに「今日はすごくお得だから行くしかない日」という意味である。しかも春休みなので子どもたちも巻き込んでのお買い物だという。巻き込む、という表現がぴったりの気がした。私も巻き込まれていたからだ。

私はお得が嫌いではない。むしろ好きなほうだと思う。スーパーで見切り品のシールを見つけると、心の中で小さくガッツポーズをする程度には、お得の味方である。けれど、お得のために人波へ突撃する勇気は持ち合わせていない。私のお得は、できれば家で完結してほしいのだ。クリックとか、タップとか、その程度の運動量で済ませたい。

それなのに、今日は博多駅前である。駅前というだけで、もう人が多そうだ。さらに無印良品週間である。しかもJQカードプレミアムデイズまで重なる。これはもう、混む要素を鍋に全部放り込んで強火で煮たような日である。

案の定、無印良品のお店は大混雑だった。私は予想していた。していたのだが、その予想はひかえめすぎた。現場の混雑は、私の想像をあっさり追い越していった。店内には、人、人、人。みんな静かに商品を見ているのに、全体としては圧がすごい。不思議なものである。無印良品というのは、見た目は落ち着いているのに、セールとなるとものすごい熱を帯びるのだ。

10%オフに加えて、請求時に10%還元。計算すると実質19%還元くらいになるらしい。こういう数字を聞くと、たしかに「今だ」という気持ちになるのもわかる。いや、わかるのだが、それにしてもあれだけ並ぶのは無印良品の強さなのだろう。あのベージュっぽい色味と、主張しすぎない収納用品と、なんだかんだ使いやすいレトルトカレーには、人を店まで運ばせる力があるらしい。たいしたものだと思う。

しかし私の頭の中では、別の計算機がうなっていた。昨日までなら楽天お買い物マラソンとSPUと楽天カードの日を合わせれば、わりと同じくらいの還元に持ち込めたのではないか。家で。ネットで。人混みゼロで。私は心の中でその理論を組み立て、ついでに口にも出した気がするのだが、妻には届かなかったようだ。

届かなかったというより、最初から採用される見込みのない意見だったのかもしれない。たまに私は、自分の発言が家庭内でうっすら字幕みたいに流れて、そのまま誰にも読まれず消えていく気がする。まあ、私も逆の立場なら聞き流しているかもしれないので、お互いさまである。

それにしても、私は昔から出不精だ。子どものころも、せっかくの休日に外へ遊びに行こうと言われると、うれしいより先に「着替えるのが面倒だな」と思う子だった。今思うと、あまり夢のある子どもではない。遠足の日ですら、行けば楽しいのに、家を出るまでがいやだった。人生のかなりのことは、この「出るまでがいや」で説明できる気がする。歯医者も美容院も役所もだいたいそうである。

だから今日も、行ってしまえば終わるのだが、終わるまでにしっかり疲れた。人込みというのは、何もしていないのに体力を吸っていく。私はただ立っていただけなのに、帰るころには一日働いたような顔になっていたと思う。実際にはほとんど役に立っていないのに、妙に疲れている。こういうときの自分は、運動会で特に活躍していないのに打ち上げだけ参加した人みたいで、少し気まずい。

お得なのは好きなのである。でも人込みはとても嫌いなのである。この二つは仲が悪い。同じ家に住んでいるのに会話をしない親子みたいな関係だ。どちらかだけ選べと言われたら悩むが、できればお得だけこちらへ来て、人込みのほうはどこか遠くへ行ってほしい。

そんな都合のいいことを考えながら帰ってきて、家の静けさにほっとした。結局、いちばんありがたいのは何%還元でもなく、人の少ない場所なのかもしれない。そう思ったが、次にまた大きな還元率を見たら、私はそれはそれで少し心が揺れる気もする。人間というのは、案外その程度のものなのだ。

ちなみに今週末まで利用できるようだ。「無印良品週間2026春|3月20日~福岡店舗&買うべき商品」「JQカード10%オフ・プレミアムデイズはいつ開催? アミュプラザ博多でお得にお買い物」行きたい人はどうぞ。私はもう行きたくない(笑)

4月1日 自転車 交通ルール改正と自転車通勤 渋滞問題を考える朝の細道

朝、家を出て自転車にまたがると、いつもの道がいつもより少しだけ重たい顔をしているように見える日がある。たぶん私の気のせいなのだが、こういうのはだいたい自分の心が先に曇っているだけなのである。最近は、4月1日以降の自転車の交通ルール変更のことを考えるたびに、通勤ルートのあの細い道が頭に浮かぶ。あの道は、イエローカットなんてできるような余裕はもちろんない。車も自転車も、みんなで「どうぞどうぞ」と言いながら進むには、あまりにも現実がせまいのである。

私は自転車通勤をしているので、この手の話になると、急に自分の背中が小さくなる。自転車は環境にいいとか健康にいいとか、そういうことを言う前に、まず私は会社に間に合いたいだけなのだ。なんなら朝の私は、健康より寝不足のほうが圧倒的に強い。そんなぼんやりした人間が道路のすみっこを走りながら、「これでルールどおりなのか」と考えているわけだから、なかなか頼りない社会である。

子どものころ、道路というのはもっと大らかなものだと思っていた。自転車はスイスイ走り、車はブーブー走り、歩行者はなんとなく守られている気がしていた。今思うと、あれは単に私が何も考えていなかっただけで、世の中の仕組みを全部「なんとなく」で済ませていたのである。子どもというのは気楽でいい。だが大人になると、なんとなくの部分に黄色い線が引かれ、白い線が引かれ、標識が立ち、原則という言葉まで降ってくる。原則は立派だが、現場の道幅はちっとも広がらない。

自転車レーンもない道で、ルールだけが原則論に寄っていくと、正しさがきれいに並ぶかわりに、現場はきれいに混乱する。車の人も困るだろうし、自転車の私も困る。しかも、自分たちのせいで交通渋滞が起きるのは、なんとも残念な気持ちになるのである。私は別に渋滞を作りたくて自転車に乗っているわけではない。そんな大それた野望はない。ただ静かに会社へ行き、できれば汗も少なめで到着したいだけだ。なのに、道路では時々、私の存在が急に“社会問題の小さいサンプル”みたいになる。朝から荷が重い。

とはいえ、だからといってルールなんて適当でいいとも思わない。そこがまた面倒なところである。私は基本的にずぼらだが、ずぼらな人間ほど、みんなが同じルールで動いてくれたほうが助かるのだ。自由にどうぞと言われると、急に何をしていいかわからなくなる。ビュッフェで最初の一皿が決まらないのと同じである。人は意外と、自由に弱い。

だから、いっそのこと一度、自動車も自転車も、みんなが厳密に交通ルールを守ってみるのもいいのかもしれない。ものすごくきっちり、誰一人として「まあこのくらいは」と思わずに進んでみる。そうしたら、たぶんあちこちで「あれ、回らないぞ」ということが起きる。そこで初めて、社会全体が「道のほうが足りていないのでは」と本気で気づくのではないかと思う。今までは、人間の遠慮とか慣れとか気合いとか、そういう大変あやしいもので道路が回っていたのかもしれない。

考えてみれば、日本の社会はけっこうそういうところがある。足りないものを、誰かの我慢と工夫で埋めてしまうのである。すると、足りていない事実だけが見えにくくなる。私もついそうやって生きてきた。部屋の散らかりも、「まだ座れる場所はある」と自分に言い聞かせて放置してきた。しかし本当は放置であり、工夫ではない。道路も、あまり人の器用さに頼りすぎると、そのうちどこかで「もう無理です」となる気がする。

4月1日以降のルール変更を前にして、私は正しさと現実のあいだを、朝から細いタイヤで走っているような気分になる。転ばないように、怒られないように、でもちゃんと前に進みたい。そう考えると、必要なのは根性ではなくて、やっぱり道なのだと思う。ひどく当たり前の結論で、書いていて少し恥ずかしい。でも世の中は、ときどきその当たり前を言わないと、なかったことにされるのである。

そんなわけで私は今日も自転車に乗る。渋滞の一部になってしまうかもしれないという、なんとも肩身のせまい気持ちを背負いながら乗る。でも、その肩身のせまさがそのまま「ここは整えてほしいです」という小さい意思表示になるなら、まあそれも悪くないのかもしれない。朝の道で社会に問題を問うなんて、たいそうな言い方ではある。けれど私としては、ただ静かにペダルをこいでいるだけなのだ。社会への問いというより、通勤のついでである。

【総務省・携帯電話不正利用防止法改正】データSIM本人確認義務化と回線数上限の話を聞いて、ポイ活MNPの昔を思い出した話

このところ、携帯の話といえば料金より本人確認である。なんだか世の中、だんだん「はい、あなた本当にあなたですか」と聞いてくる場面が増えた気がする。私は別にやましいことはないのだが、聞かれると少しだけうろたえる。人はなぜ、正しいことをしていても確認されると小さくなるのか。不思議なものである。

昨日、2026年3月24日に、携帯電話不正利用防止法の改正案が閣議決定されて国会に提出されたという話を見た。内容はわりとまじめで、これまで音声SIMでは必要だった本人確認を、データ通信専用SIMにも広げること、それから「個人が使うには多すぎる回線数」を契約しようとしたら、事業者が断れるようにする、というものらしい。いまのところ具体的な上限数はまだ出ておらず、今後の省令などで決まる見込みだという。背景には、SNS型投資詐欺やロマンス詐欺でデータSIMが悪用されてきたことがある。なるほど、たしかに穴はふさぎたくなる。穴というのは、たいてい善良な人より先に、妙に手際のいい人が見つけるものなのである。

昔の私は、この「回線」という言葉に、今よりずっと胸をときめかせていた。MNPのキャンペーンを見ると、まるで秋のさんまを見た猫のように目つきが変わったものだ。乗り換えればポイント、契約すれば還元、翌月にはまた別の店で特典。世の中には、地道に働いてお金を得る人と、週末に家電量販店を巡って謎の達成感を得る人がいるが、私はかなり後者に寄っていたと思う。

もちろん、当時から大手各社には個人名義5回線前後の制限運用があった。ドコモは2009年に原則5回線までとし、auも現在、同一名義のスマホ・携帯電話を累計5回線までとしている。だから無限に増やせたわけではない。ただ、データSIMのほうは法的には抜けていたので、そこに時代のすき間風が吹いていたのだろう。すき間風は寒いが、好きな人には追い風でもあったのだ。

とはいえ、最近は私もだいぶ丸くなった。若いころのように、案件の終了日と開通日とポイント付与日をノートに書きつけて暮らすことはなくなった。あの頃の私は、携帯を使っていたというより、携帯に使われていた気がする。回線の管理表だけがやけに整っていて、部屋は散らかっていた。人間としての優先順位が少しおかしい。

それで今は「もうMNPもほどほどだなあ」と、しみじみ思うのである。法改正の流れを見ても、これからはデータSIMを大量に回してうまいことやる、みたいな昔ながらの遊び方は、かなりやりにくくなりそうだ。普通に1〜2回線の人には大きな影響は少ないだろうが、複数回線を抱えていた人ほど、ああ時代が閉じていくな、と思うのではないか。

……などと、引退した名選手のような顔で回顧してみたのだが、冷静に数えてみると、私はいまでも5回線ある。

ほどほどとは何か。

世間の感覚では、スマホは1人1台か、せいぜい仕事用と私用で2台くらいだろう。それなのに私は、もう落ち着いたみたいな顔をしながら5回線持っている。これは「節度ある生活」ではなく、「昔よりは暴れていないクマ」に近い。たしかに山は下りてきていないが、クマはクマなのである。

だからこのニュースを見て、少しだけ背筋が伸びた。私のような者が笑い話で済んでいるうちに、世の中はちゃんと線を引こうとしている。まっとうである。まっとうすぎて、ちょっと耳が痛い。でも、5回線持ちが「最近はほどほどです」と言うのも、なかなか味わい深い。人は自分に甘いし、私はとくにそうなのだと思う。

結局、ポイ活も回線も、ほどほどが一番いいのだろう。そう思いながら、今日も私は5つのSIMのことを、だいたい把握している。だいたい、というところが、いちばん危ないのかもしれない。

ちなみに、ちょっと古いデータかもしれないが、MNPしたことがないという人がネットユーザーでも5割、ドコモユーザーに限れば8割以上だという(参考:MNPをしているユーザーはネットユーザーでも50%程度

 

美味しんぼ アニメ で見て思う、昭和サラリーマンのゆるさと料理万能説

最近、私は『美味しんぼ』のアニメにはまっている。はまっている、という言い方も少し大げさで、正しくは、夕方になるとなんとなく見てしまい、気づけば次の話も押している、という感じである。しかも今はワイモバイルのお得キャンペーンで、Netflixが三か月無料なのだから、見ないほうが不自然なくらいだ。こういう「今だけ無料」に私は弱い。弱いというか、ほとんど無抵抗である。

『美味しんぼ』を見ていると、子どものころ、テレビで普通にこれを見ていた記憶がよみがえってくる。あのころは、ただ大人たちが怒ったり偉そうにしたりしながら、最後にはおいしいものを食べて丸く収まる話、くらいに思っていた。子どもというものは雑でよい。私もかなり雑だったのである。

ところが今見ると、毎回だいたい同じ型なのに、つい最後まで見てしまう。誰かが何かで困っている。職場がギスギスしている。親子仲が悪い。商売がうまくいかない。頑固者が意地を張っている。そういういろいろな問題が出てくるのだが、最終的には料理が出てきて、だいたい全部なんとかなるのである。すごい。そんなことがあるのかと思うが、あるのだから仕方がない。現実の世界では、煮物が出てきたからといって部長の性格が直ることはあまりない。しかし『美味しんぼ』の世界では直る。刺身ひとつで人生観まで変わる。料理の力が強すぎるのである。

この「料理だけで解決する」という流れを見ていると、昔読んだ昔話を思い出す。おじいさんが山へ芝刈りに行き、おばあさんが川へ洗濯に行く、あの感じである。様式美というのは強い。こっちはもう「はいはい、どうせ最後はなんか食べて心を入れ替えるんでしょう」と思いながら見ているのに、ちゃんと食べて、ちゃんと少し感動してしまう。私はずいぶん素直なのか、単純なのか、自分でもよくわからない。

それにしても、見ていて毎回気になるのは、昭和のサラリーマンの空気である。こんなに緩い感じで仕事していて大丈夫なのか、と心配になるほど緩い。もちろん忙しそうな顔はしているのだが、今のような、パソコンの画面を見つめながら無言で何かに追われている感じではない。ずいぶん長く席を立って話し込んでいるし、食べもののためにあちこち行くし、感情もすぐ顔に出す。上司も部下も、妙に人間くさい。会社なのに、どこか町内会みたいなのだ。

昭和ってスゲー時代だったんだな、と私は改めて思った。もちろん本当にあの通りだったかは知らない。たぶん現実は現実で大変だったのだろう。でも、少なくともアニメの中では、みんな仕事をしているのに、今より少しだけ人生にすき間があるように見える。そのすき間に、説教とかケンカとか、しみじみした食事とかが入り込んでくる。今だったら、会議の前にこんな長話をしていたら、「で、結論は?」と言われそうである。便利な言葉だが、あれを言われると人はだいたいしぼむ。私などはすぐしぼむ。干ししいたけくらいしぼむ。

そして、いちばんいいなと思うのは、子どももこれを面白がって見ていることである。今の子に昭和の会社員がどう映っているのかは知らないが、とりあえず料理の場面になるとちゃんと食いつく。やはり人間は、うまそうなものに弱いのだ。そこは時代が変わっても同じらしい。親としては、もっと教育に役立つ何かを一緒に見るべきなのかもしれないが、家族で「この世界、また料理で全部解決したね」と笑っていられるなら、それはそれで十分な気もする。

結局のところ、私は『美味しんぼ』を見て、昭和はすごいなあと感心し、料理は万能だなあと半分本気で思い、無料期間が終わる前に少しでも多く見ておこうとしている。なんともせこい話である。だが、人間なんてそのくらいでちょうどいいのだと思う。人生の問題が全部料理で片づくわけではないが、少なくともアニメを見ながら夕飯のことを考える時間は、なかなか悪くないのである。

車検 タイヤ交換 ディーラー 楽天タイヤで心が往復する話

車検が近づいてくると、私は少しだけ人相が悪くなる。べつに誰かに怒っているわけではないのに、なんとなく口がへの字になるのである。二年に一回しか来ないくせに、毎回きっちり憂鬱を連れてくるあたり、車検というものは妙に律儀だと思う。

最初のころは、車検といえば「車を見てもらって安全になるんだから、ありがたいことだ」と、わりと素直に考えていた。ところが何回か経験すると、ありがたさの横に「いくらかかるんだろう」という、いやに現実的な顔をした不安が並んで座るようになる。しかもその不安は、かなり場所をとる。

そしてだいたいこの時期になると、もうひとり、毎回顔を出す人物がいる。タイヤ交換である。人物ではないが、気持ちとしてはもう親戚みたいなものだ。「そろそろタイヤ交換も」と前回も言われた気がするし、その前も似たようなことを言われた気がする。タイヤというのは、いつ見ても黒くて丸いだけなのに、急に高級品みたいな顔をしてくるから油断ならない。

私は車のことがよくわからない。タイヤの溝がどうとか、ゴムがどうとか言われると、「なるほど」と言いながら、心の中ではほとんどわかっていない。たぶん学校の授業でも、わからないのにわかった顔をしていたタイプである。そういうところだけ成長していないのだ。

それで、ディーラーに頼むと高いんだよなあ、と思う。いや、高いといっても、ちゃんとしてくれる安心料みたいなものはあるのだろう。店もきれいだし、飲み物も出るし、待っているあいだに「大人のきちんとした買い物をしている人」みたいな気分になれる。けれどその気分に二万円以上の価値があるかと聞かれると、私は急に口数が少なくなるのである。お茶とクッキーで二万円は、さすがに高級すぎる。

そこで楽天タイヤを見る。こういう時の私は妙に熱心で、ふだん洋服ひとつ買うにもぐずぐずするくせに、タイヤの値段になると真顔で比較を始める。総額で九万円くらい。安くはない。でも、ディーラーより二万円以上高くなるなら、もう面倒でも楽天でやるかな、という気になる。「経験値だと思って」という言い方を自分でしていて、なんだそれはと思う。私はいつから、タイヤ交換を冒険みたいに考えるようになったのか。

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経験値というのも、たいていは面倒くさいことの言い換えである。若いころは、知らない店に入るのも、新しいことをするのも、多少は胸が躍った。いまはもう、胸が躍る前に「ちゃんと予約できるかな」「当日迷わないかな」「変なサイズを選んでいたらどうしよう」が先に来る。だいぶ地味な人生である。でも地味な不安は、派手な不安よりしつこいのだ。

昔、家の近くの自転車屋で空気を入れてもらっただけなのに、ついでにあれこれ直されて、最後によくわからない笑顔でお金を払ったことがある。あの時の私は、完全に店の人の流れに乗せられていた。川を流れる葉っぱみたいなものだったと思う。車検のたびに、その時の葉っぱの私がうっすら蘇る。たぶん私は、乗り物のメンテナンスという場面で、自分の意思がかなり弱くなるのである。

とはいえ、安ければ正義というわけでもない。結局、安心したいし、損もしたくないし、できれば面倒も避けたい。全部ほしい。こういうのは本当に、私の小ささがよく出る。堂々と「安全のためなら払います」と言えたらかっこいいのだろうが、私は電卓をたたきながら、あっちを見たりこっちを見たりしている。安全も大事、でも二万円も大事。なんともせせこましいが、生活とはそういうものなのだと思う。

たぶん最終的には、値段と手間と気分を天秤にかけて、いちばん「まあいいか」と思えるところに決めるのだろう。車検もタイヤも、考え始めると大ごとみたいだが、終わってしまえばたいてい忘れる。そして二年後、また同じ顔で憂鬱になるのである。人は成長するとも言うが、こういう件に関しては、私はずっと同じ場所をくるくる回っている。

でもまあ、タイヤひとつでこんなに悩めるうちは、まだ平和なのかもしれない。そう思うことにした。たいした悟りではないが、どうせ丸いタイヤの話なのだから、結論もそのくらい丸くていいのである。