最近、AIがすごいらしい。らしい、というのは、私がその「すごさ」を全部理解しているわけではないからである。調査もする、原稿も書く、デザインまでやる。しかも今はエージェントとやらを使って、ほとんどのタスクを自動化できるという。人間は何をするのかといえば、たぶん「すごいなあ」と言う係なのだと思う。
思えば、ChatGPTが出たときも同じように驚いた。文章が一瞬で出てくる。しかも、それっぽい。私は試しに「やる気が出ない理由」と入力してみたら、妙に整った文章が出てきた。正論ばかりで、ぐうの音も出なかった。やる気が出ない理由を知ったところで、やる気が出るわけではないのだが、そこはAIもさすがに面倒を見てくれないらしい。
最近では、一次情報を作っている人たちも当然AIを使っているそうだ。研究者も、記者も、デザイナーも。みんなAIと一緒に何かを作っている。そのAIが作ったものを、今度はAIライターがニュース記事にする。そして、その情報をAIキュレーターがまとめる。まるでコピー機でコピーした紙をさらにコピーしているみたいである。だんだん文字が薄くなっていく、あの感じだ。
ここで私はふと立ち止まる。あれ? 真実はどこにあるのだろうか、と。
子どものころ、伝言ゲームという遊びがあった。最初の人が言った言葉が、最後にはまったく違う言葉になっている。私はなぜかいつも途中で変なアレンジを加えてしまう側の人間だったので、犯人はだいたい私である。今思えば、あれは人間版AIキュレーションだったのかもしれない。余計なことを足すな、と当時の私に言いたい。
しかし、AIの場合、誰がアレンジしたのかもわからない。最初の情報がどんな顔をしていたのか、もう見えない。きれいに整えられ、読みやすく加工され、角が取れている。まるで、みかんの白い筋を全部取ってくれた状態で出されるようなものだ。食べやすいけれど、なんとなく味気ない。
とはいえ、私はちゃっかりAIに文章の相談をしたりもする。便利なものは使う主義なのである。真実がどこにあるのかと首をかしげながら、その真実を探す手伝いもAIに頼もうとしている自分がいる。なんとも都合がいい。
もしかすると、真実というのは、どこかに固定されているものではなくて、人間が「まあ、これでいいか」と思った地点に、ふわっと着地するものなのかもしれない。だとしたら、AIがいようがいまいが、あまり関係ないのだ。
結局のところ、私は今日もAIがまとめた記事を読みながら、「なるほど」とうなずいている。真実がどこにあるのかはわからないが、とりあえず昼ごはんの時間はちゃんと来る。どうやらそのへんの現実は、まだ自動化されていないらしいのである。