私は「軍師」という言葉に弱い。
別に戦国時代が好きというほどでもないし、三国志も詳しいわけではないのだが、「軍師」とつくと、なんだか急に話が立派になるのである。ふつうならただの迷いとか優柔不断とか言われそうなものでも、「軍師が策を練る」と言われると少しだけ頭が良さそうに聞こえる。実に都合のいい言葉なのだ。
さっき記事で「軍師」というキーワードを書いたせいで、私はふいに『食の軍師』を思い出してしまった。
あの漫画は実にいい。中年男がひとり飯をするたびに、頭の中で勝手に軍議を始めるのである。おでんも、蕎麦も、カレーも、ただ食べればそれで済む話なのに、いちいち攻略戦みたいになる。しかも本人はたいへん真剣なのに、見ているこちらからすると、だいたい大げさなのである。この「本人だけが大戦争」の感じが、なんともおかしい。
私はああいうものを見るたびに、他人事と思えない気持ちになる。
なぜなら私も、食べる前に無駄に考える人間だからである。
たとえば弁当ひとつ買うにしても、「今日は満足感を取るべきか、それとも軽さを優先するべきか」「今ここで揚げ物に行くと夜に後悔するのではないか」「いや、後悔を恐れていたら弁当など選べないのではないか」と、たいして必要でもない会議が頭の中で始まる。会議の参加者はもちろん私ひとりである。しかも結論が出るのは遅い。軍師というより、決断力のないおっさんである。
そして『食の軍師』のことを思い出すと、かなり高い確率で崎陽軒のシウマイ弁当が食べたくなる。
これがまた不思議なもので、あの弁当には人を作戦家にさせる何かがあるのだと思う。まず、どこから攻めるかで少し迷う。シウマイを先に行くか、後に残すか。筍煮をいつ挟むか。あんずは途中の気分転換に使うか、最後の締めに取っておくか。こうして書くと本当にどうでもいい話なのだが、食べる本人にとっては案外どうでもよくないのである。
私は昔から、シウマイ弁当のあの「全部が少しずつ気になる」感じに弱い。
主役はもちろんシウマイなのだが、脇役たちも妙に気が利いている。派手ではないのに、全員がちゃんと仕事をしている。学級委員みたいな弁当である。目立って騒ぐ者はいないが、全体のまとまりはやたら良い。あの俵型のご飯まで、きちんと並んでいてえらい。私の机の上の書類も、あれくらい整然としてほしいものだが、こちらはまったく統率が取れていない。
それにしても、『食の軍師』の本郷という人は、いつも脳内では堂々としているのに、現実では妙にうまくいかない。
ライバルの力石に勝手に張り合って、だいたい自分で転ぶ。あの感じもまた、私は少し身につまされる。人は歳を取ると落ち着くのかと思っていたが、実際には頭の中だけ立派になって、外側は案外そのままなのかもしれない。私だって、買い物前は完璧な計画を立てるのに、店に入ると余計なものを買っている。軍師不在である。
しかし、そういう無駄な妄想というのは、案外ばかにできない。
ただ弁当を食べるだけでも、「ここでシウマイを一つ温存」「今こそ筍で流れを変える」と勝手に考えていると、妙に楽しいのである。食事そのものより、その前後のくだらない脳内実況に味がある。人間の楽しみというのは、だいたいこういうものなのだと思う。役に立たないが、ちょっと嬉しい。
というわけで、私はまた崎陽軒のシウマイ弁当が食べたくなっている。
食べたところで天下は取れないし、別に何にも勝たないのだが、脳内でだけは立派な作戦が始まるだろう。
結局、食の軍師というのは、食事を楽しむための言い訳なのかもしれない。私にもたいへん必要な才能だと思う。
ぜひ買ってください(笑)
