朝、家を出て自転車にまたがると、いつもの道がいつもより少しだけ重たい顔をしているように見える日がある。たぶん私の気のせいなのだが、こういうのはだいたい自分の心が先に曇っているだけなのである。最近は、4月1日以降の自転車の交通ルール変更のことを考えるたびに、通勤ルートのあの細い道が頭に浮かぶ。あの道は、イエローカットなんてできるような余裕はもちろんない。車も自転車も、みんなで「どうぞどうぞ」と言いながら進むには、あまりにも現実がせまいのである。
私は自転車通勤をしているので、この手の話になると、急に自分の背中が小さくなる。自転車は環境にいいとか健康にいいとか、そういうことを言う前に、まず私は会社に間に合いたいだけなのだ。なんなら朝の私は、健康より寝不足のほうが圧倒的に強い。そんなぼんやりした人間が道路のすみっこを走りながら、「これでルールどおりなのか」と考えているわけだから、なかなか頼りない社会である。
子どものころ、道路というのはもっと大らかなものだと思っていた。自転車はスイスイ走り、車はブーブー走り、歩行者はなんとなく守られている気がしていた。今思うと、あれは単に私が何も考えていなかっただけで、世の中の仕組みを全部「なんとなく」で済ませていたのである。子どもというのは気楽でいい。だが大人になると、なんとなくの部分に黄色い線が引かれ、白い線が引かれ、標識が立ち、原則という言葉まで降ってくる。原則は立派だが、現場の道幅はちっとも広がらない。
自転車レーンもない道で、ルールだけが原則論に寄っていくと、正しさがきれいに並ぶかわりに、現場はきれいに混乱する。車の人も困るだろうし、自転車の私も困る。しかも、自分たちのせいで交通渋滞が起きるのは、なんとも残念な気持ちになるのである。私は別に渋滞を作りたくて自転車に乗っているわけではない。そんな大それた野望はない。ただ静かに会社へ行き、できれば汗も少なめで到着したいだけだ。なのに、道路では時々、私の存在が急に“社会問題の小さいサンプル”みたいになる。朝から荷が重い。
とはいえ、だからといってルールなんて適当でいいとも思わない。そこがまた面倒なところである。私は基本的にずぼらだが、ずぼらな人間ほど、みんなが同じルールで動いてくれたほうが助かるのだ。自由にどうぞと言われると、急に何をしていいかわからなくなる。ビュッフェで最初の一皿が決まらないのと同じである。人は意外と、自由に弱い。
だから、いっそのこと一度、自動車も自転車も、みんなが厳密に交通ルールを守ってみるのもいいのかもしれない。ものすごくきっちり、誰一人として「まあこのくらいは」と思わずに進んでみる。そうしたら、たぶんあちこちで「あれ、回らないぞ」ということが起きる。そこで初めて、社会全体が「道のほうが足りていないのでは」と本気で気づくのではないかと思う。今までは、人間の遠慮とか慣れとか気合いとか、そういう大変あやしいもので道路が回っていたのかもしれない。
考えてみれば、日本の社会はけっこうそういうところがある。足りないものを、誰かの我慢と工夫で埋めてしまうのである。すると、足りていない事実だけが見えにくくなる。私もついそうやって生きてきた。部屋の散らかりも、「まだ座れる場所はある」と自分に言い聞かせて放置してきた。しかし本当は放置であり、工夫ではない。道路も、あまり人の器用さに頼りすぎると、そのうちどこかで「もう無理です」となる気がする。
4月1日以降のルール変更を前にして、私は正しさと現実のあいだを、朝から細いタイヤで走っているような気分になる。転ばないように、怒られないように、でもちゃんと前に進みたい。そう考えると、必要なのは根性ではなくて、やっぱり道なのだと思う。ひどく当たり前の結論で、書いていて少し恥ずかしい。でも世の中は、ときどきその当たり前を言わないと、なかったことにされるのである。
そんなわけで私は今日も自転車に乗る。渋滞の一部になってしまうかもしれないという、なんとも肩身のせまい気持ちを背負いながら乗る。でも、その肩身のせまさがそのまま「ここは整えてほしいです」という小さい意思表示になるなら、まあそれも悪くないのかもしれない。朝の道で社会に問題を問うなんて、たいそうな言い方ではある。けれど私としては、ただ静かにペダルをこいでいるだけなのだ。社会への問いというより、通勤のついでである。