春になると、私は急に花を見に行きたくなる。ふだんは道ばたのタンポポにも「お、黄色いな」くらいの雑な感想しか持たないくせに、桜だ藤だと言われると、まるで昔から花を愛してきた人間のような顔をして出かけるのである。
今年は福岡県柳川市の「中山大藤まつり」に行った。樹齢約300年の大藤があると聞いて、300年という数字にまずびびった。300年といえば、私が朝起きてから出かける決心をするまでの体感時間と同じくらい長い。そんなわけはないが、だいたいそれくらい重みのある年数である。
会場に着くと、藤棚いっぱいに紫の花房がぶら下がっていた。まるで上から紫色のそうめんが大量に干されているようで、こんなことを言うと藤に失礼だが、私の中の貧しい例え話がそう言っているのだから仕方ない。花房は長いものだと1メートルを超えるらしく、私の人生で1メートルもまっすぐ垂れ下がって美しいものなど、そうそう見たことがない。
神社の石橋を覆うように咲いている藤は、たしかに「藤のカーテン」と呼びたくなる姿だった。風が吹くと少し揺れて、そこだけ時間がゆっくりになったように見える。私は首を上に向けて、口を半開きにして見ていたと思う。こういう時、人間はだいたい賢そうな顔を保てない。
甘い香りもしていた。強すぎず、ふわっと来る感じである。子どもの頃、母の鏡台にあった化粧品の匂いをこっそり嗅いで、大人というものはずいぶん香るものだなと思ったことを思い出した。あの時の私は、口紅を少し出して戻せなくなり、無理やり押し込んで先端をぐちゃっとやった。あれに比べると、藤の香りはずっと上品で、誰にも怒られない。
この中山大藤は、江戸時代に地元の酒屋の「万さん」が大阪の野田から種を持ち帰ったのが始まりだという。万さん、なかなかの持ち帰り上手である。私など旅先で持ち帰るものといえば、だいたいレシートと半端なお菓子だけだ。それが300年後にこんなに人を集める藤になるのだから、人生はわからない。私が昔、机の引き出しにしまったどんぐりも、もしかしたら何かになっていたかもしれない。いや、たぶん虫が出ただけである。
まつりには屋台や物産販売もあり、私は花を見に来たはずなのに、途中から食べ物の気配に心を持っていかれた。人間の品格というものは、甘い香りと屋台の匂いが同時に来た時に試される。私はわりとすぐ負けるタイプだ。藤は300年も堂々と咲いているのに、私は数分で胃袋の言いなりなのである。
夜にはライトアップもあるらしい。昼の藤も十分きれいだったが、夜に光を浴びたら、また違う顔になるのだろう。人間もライトを当てれば多少ましに見える時がある。証明写真だけはなぜか逆で、あれは人の弱点を探す専門家みたいな光である。
藤の下を歩きながら、300年も咲き続けるものの前で、私は昨日の晩ごはんさえすぐ忘れる自分を思った。長く残るものには、それなりの理由があるのだろう。きれいだから、誰かが大事にしてきたから、また誰かが見に来るから。そうやって藤は今日も紫色でぶら下がっている。
私は結局、首を少し痛くしながら藤を見上げ、屋台のことを考え、最後に「春ってなかなか忙しいな」と思った。花も見なきゃいけないし、匂いも嗅がなきゃいけないし、食べ物にも気を取られなきゃいけない。
藤は300年、私は半日で疲れる。まあ、それぞれの咲き方があるということで納得したのである。

