中山大藤まつり2026で樹齢300年の藤を見たら、私の首と心が少し紫になった話

春になると、私は急に花を見に行きたくなる。ふだんは道ばたのタンポポにも「お、黄色いな」くらいの雑な感想しか持たないくせに、桜だ藤だと言われると、まるで昔から花を愛してきた人間のような顔をして出かけるのである。

今年は福岡県柳川市の「中山大藤まつり」に行った。樹齢約300年の大藤があると聞いて、300年という数字にまずびびった。300年といえば、私が朝起きてから出かける決心をするまでの体感時間と同じくらい長い。そんなわけはないが、だいたいそれくらい重みのある年数である。

会場に着くと、藤棚いっぱいに紫の花房がぶら下がっていた。まるで上から紫色のそうめんが大量に干されているようで、こんなことを言うと藤に失礼だが、私の中の貧しい例え話がそう言っているのだから仕方ない。花房は長いものだと1メートルを超えるらしく、私の人生で1メートルもまっすぐ垂れ下がって美しいものなど、そうそう見たことがない。

神社の石橋を覆うように咲いている藤は、たしかに「藤のカーテン」と呼びたくなる姿だった。風が吹くと少し揺れて、そこだけ時間がゆっくりになったように見える。私は首を上に向けて、口を半開きにして見ていたと思う。こういう時、人間はだいたい賢そうな顔を保てない。

甘い香りもしていた。強すぎず、ふわっと来る感じである。子どもの頃、母の鏡台にあった化粧品の匂いをこっそり嗅いで、大人というものはずいぶん香るものだなと思ったことを思い出した。あの時の私は、口紅を少し出して戻せなくなり、無理やり押し込んで先端をぐちゃっとやった。あれに比べると、藤の香りはずっと上品で、誰にも怒られない。

この中山大藤は、江戸時代に地元の酒屋の「万さん」が大阪の野田から種を持ち帰ったのが始まりだという。万さん、なかなかの持ち帰り上手である。私など旅先で持ち帰るものといえば、だいたいレシートと半端なお菓子だけだ。それが300年後にこんなに人を集める藤になるのだから、人生はわからない。私が昔、机の引き出しにしまったどんぐりも、もしかしたら何かになっていたかもしれない。いや、たぶん虫が出ただけである。

まつりには屋台や物産販売もあり、私は花を見に来たはずなのに、途中から食べ物の気配に心を持っていかれた。人間の品格というものは、甘い香りと屋台の匂いが同時に来た時に試される。私はわりとすぐ負けるタイプだ。藤は300年も堂々と咲いているのに、私は数分で胃袋の言いなりなのである。

夜にはライトアップもあるらしい。昼の藤も十分きれいだったが、夜に光を浴びたら、また違う顔になるのだろう。人間もライトを当てれば多少ましに見える時がある。証明写真だけはなぜか逆で、あれは人の弱点を探す専門家みたいな光である。

藤の下を歩きながら、300年も咲き続けるものの前で、私は昨日の晩ごはんさえすぐ忘れる自分を思った。長く残るものには、それなりの理由があるのだろう。きれいだから、誰かが大事にしてきたから、また誰かが見に来るから。そうやって藤は今日も紫色でぶら下がっている。

私は結局、首を少し痛くしながら藤を見上げ、屋台のことを考え、最後に「春ってなかなか忙しいな」と思った。花も見なきゃいけないし、匂いも嗅がなきゃいけないし、食べ物にも気を取られなきゃいけない。

藤は300年、私は半日で疲れる。まあ、それぞれの咲き方があるということで納得したのである。

参考:中山大藤まつり2026|柳川の藤ライトアップと見頃情報

参考:福岡の藤の名所2026年版

【キャンプなぎの木 大野城ベース体験記】おじさん3人、ダッチオーブンと鳥の丸焼きで思い出したキャンプの勘

人には、好きだったはずなのに、すっかり忘れてしまうものがある。私にとってそれはキャンプだった。そんな大事なことを忘れるものかと思うが、忘れるのである。しかも数年単位で、きれいさっぱり忘れていた。まるで、押し入れの奥にしまったホットプレートのように、存在は知っているのに、ないものとして暮らしていたのだ。

子どもが小さいころは、ずいぶんキャンプに行ったものだった。子どもと、その友達家族と、わいわいにぎやかに出かけて、気づけばテントの数よりイスの数のほうが多いような、そんなキャンプである。子どもは走り回り、大人は肉を焼き、誰かが虫に騒ぎ、誰かが炭に苦戦する。あれはあれで、たいへんだったが楽しかった。

しかし子どもというものは、こちらの都合など気にせず成長する。中学生ともなると、土日にはそれぞれ何かしら予定が入るようになる。部活だの、友達との約束だの、よくわからない用事だの、とにかく親と一緒に「さあキャンプでも」とはいかなくなる。そうして私は、キャンプが好きだったこと自体を、うっかり忘れていたのである。なんとも薄情な話だ。

そんなさなか、仕事の関係者から「キャンプに行きたい」と誘われた。なんとなく軽い調子の話だったのだが、気がつけば本当に行くことになり、おじさん3人でキャンプに行くという、少し説明しづらい集まりが成立した。しかも、道具を持っているのは私だけで、ほかの二人はたいへん身軽だった。身軽というか、ほぼ手ぶらである。キャンプというのは、本来もう少し各自に責任がある遊びのはずだが、そのへんはふわっと始まった。

そこで私は、家の中のあちこちを探し回り、キャンプ道具を引っ張り出した。ランタン、テーブル、バーナー、ダッチオーブン。久しぶりに見る道具たちは、どれも「まだ使う気あったのか」という顔をしていた。私も同じ気持ちだった。キャンプ好きだったことを忘れていたくらいだから、道具の置き場所も半分くらい忘れていたのである。

行ったのはキャンプなぎの木 大野城ベース。太宰府インターから車で約5分という立地で、福岡市内からでも小一時間ほどで行ける。この手軽さはかなりよい。キャンプというと、自然を求めて山奥まで行き、たどり着くころにはすでに疲れている、ということもあるが、ここはそこまで気負わなくていい。自然はほしいが、遠すぎるのは困るという、少々わがままな大人にはちょうどよい場所なのである。

今回はリクエストもあり、鳥の丸焼きをダッチオーブンで作った。文字にすると急に本格派である。おじさん3人の集まりなのに、料理だけ妙にイベント性が高い。丸ごとの鳥というのは、それだけで少し特別感がある。普段の食卓ではなかなか登場しない姿なので、見た目の迫力もあるし、なんとなく場も盛り上がる。ダッチオーブンのふたを開けるときの、あの「ちゃんとできていてくれ」という緊張感は、何歳になってもよいものだ。無事にそれらしく焼けていたときには、たいしたことを成し遂げたわけでもないのに、妙に誇らしい気持ちになった。

考えてみれば、おじさん3人でキャンプというのは、少し奇妙である。若者でもなく、家族連れでもなく、それぞれまあまあの年齢の男が3人、自然の中で火を囲んでいるのだから、客観的に見ればなかなか味わい深い光景だったと思う。だが実際にやってみると、これがなかなか楽しい。変に気を使いすぎることもなく、かといって無言すぎることもなく、ただ火を見て、食べて、しゃべっているだけで時間が過ぎる。大人になると、こういう「特に意味はないが楽しい時間」は案外貴重なのだと思う。

それにしても私は、好きだったものを忘れていたのだから、ずいぶんもったいない数年を過ごしたものである。もっと早く思い出していればよかったとも思うが、人間はだいたい何かきっかけがないと思い出せない。押し入れの奥の道具も、使ってみればちゃんと役に立つし、自分もまだそれなりに動ける。そういうことが確認できただけでも、今回のキャンプは収穫だった。

今度は小学生の三男と一緒に行くのもいいなと思っている。子どもが大きくなると、親と出かける時間はだんだん減っていく。だから行けるうちに行っておいたほうがよいのだろう。まあ、そう思いながらまた先延ばしにするのが私なのだが、せっかくキャンプ好きだったことを思い出したのだから、今度は忘れないうちに火をおこしたいものである。

阪急アワーズイン再訪記|息子と二人旅・ANAブルーハンガーツアー・春休み東京宿泊の話

ホテルというのは、ふつう何度も泊まってはじめて「なんとなく勝手知ったる場所」みたいな顔ができるものだと思っていた。ところが私はこのたび、たった二回目にして、阪急アワーズインをうっすら定宿のように感じてしまったのである。人間のなれというのは実にいいかげんだ。

前回は出張で来た。仕事のついでの宿泊だったので、心はどこか落ち着かず、ホテルのことも「寝る場所」としてしか見ていなかった気がする。だが今回はちがう。今回は息子と二人旅である。しかも春休みだ。旅の空気が最初から少しだけ浮かれている。とはいえ、浮かれているのは主に息子のほうで、私のほうはマイルを使うときのあの、うれしいのか惜しいのかわからない気持ちを胸に、静かに東京へ向かったのである。虎の子のANAマイルを、えいっと放出したのだ。

息子はANAのブルーハンガーツアーというものに参加したかったらしい。私は最初、その名前を聞いたとき、青い格納庫を見るだけでそんなに心が躍るものなのかと思った。だが子どもにとって飛行機というのは、ただの乗り物ではないらしい。大人が思うよりずっと、夢とかロマンとか、そういう少し大げさなものがくっついている。私だって子どものころは工場見学とか、普段は入れない場所に入るだけで妙に興奮した。今でも「関係者以外立入禁止」と書いてあると、関係者でもないのに少し気になるのだから、人間の本質はたいして変わらないのかもしれない。

今回はツインルームだった。前回は一人で気楽だったが、ツインになると急に「旅」という感じがする。ベッドが二つ並んでいるだけで、ちょっとちゃんとしたことをしている気分になるのだから不思議だ。息子は部屋に入るなり、自分の寝る側をすばやく決めていた。こういうところだけは判断が早い。家で「早く片づけなさい」と言うと石のように動かないのに、ホテルのベッドの位置決めだけは風のようである。

それにしても、前回からあまり日が開いていないせいか、私はこのホテルの廊下やエレベーターを見ただけで、妙に「帰ってきた」ような気持ちになってしまった。二回目で帰ってきたも何もない。向こうからすれば、知らない客がまた来ただけである。なのにこちらは勝手に親しみを抱いているのだから、少々ずうずうしい。店で二回目に行っただけで常連顔をしそうになる自分を、私はときどき心の中で取り押さえている。

そんな勝手な親近感も手伝って、今回はおふろの王様に入って疲れをいやそう、と最初から決めていた。こういう「今回はこれをやる」がある旅は少し楽しい。大人になると、観光名所よりも風呂のほうが魅力的になってくるのが何とも言えない。若いころは旅といえば、見て、食べて、動き回るものだった気がするが、今はまず「どこで休めるか」に目がいく。年齢というのは、おそろしいほど正直に行動へ出る。

湯につかっていると、息子は明日のツアーのことを考えているのか、いつもより少しだけしゃんとして見えた。そういう顔を見ると、わざわざ東京まで来たかいがあったなと思う。マイルも減ったが、それはもう仕方がない。マイルというのは、ためているときが一番えらそうで、使うと急に心細くなる不思議な数字である。でも使わなければ、ただの数字のままだ。

息子との二人旅なんて、いつまでできるのかよくわからない。子どもはそのうち親と出かけるより、自分の世界のほうが忙しくなるだろう。そう思うと少ししみじみするが、しみじみしすぎるのも私らしくないので、ひとまず風呂上がりにのんびりできたことを喜ぶことにした。

たった二回目の阪急アワーズインは、やはりまだ定宿ではない。ないのだが、こちらが勝手にそう思って少し安心しているのだから、それでいいのである。旅の満足なんて案外そんなもので、立派な思い出より、見覚えのある廊下と大きい風呂があれば、もう十分なのだと思う。

【広島駅直結 ホテルグランヴィア広島 宿泊記】WESTERポイントで泊まる、4ベッド客室とラウンジの平和な幸福

ポイントというものは、不思議なものである。貯めているあいだは、なんとなく心の支えになるのに、使う段になると急に惜しくなる。まるで、引き出しにしまってある「いつか使うかもしれない輪ゴム」みたいなもので、持っているだけで安心するのだ。しかし私は今回、そのありあまるWESTERポイントをついに放出し、広島駅直結のホテルグランヴィア広島に宿泊してきた。こう書くとたいへん景気のいい人のようだが、実際は「ポイントでなら泊まれる」という、いささか庶民的な事情なのである。

泊まったのは、tsudoi-4Bという部屋だった。名前からして、すでに集まりを前提としている感じがある。「つどい」と言われると、なんだか親戚一同が法事のあとにお茶を飲む部屋みたいでもあるが、実際これはなかなか珍しい4ベッドの客室である。

シティホテルというのは、だいたい2名定員でできている気がする。世の中には家族連れがこんなにいるのに、ホテルの部屋だけが妙に「仲よく2人でどうぞ」という顔をしているのが不思議だ。家族旅行になると、たいてい2部屋に分かれることになる。そうなると、子どもの組み合わせをどうするかとか、誰がどっちの部屋に行くかとか、ちょっとした会議が発生する。そしてたいてい、最後にどこかへ追いやられる人がいる。だいたいお父さんである。

しかも、そういうときに出てくるエキストラベッドというものは、どうにも「申し訳程度」に置かれている雰囲気がある。寝られないことはないが、堂々とは寝にくい。正規メンバーのベッドたちが、きちんとした顔で並んでいる横で、一台だけ「今日は私でがまんしてください」という顔をしているのである。あれに寝るお父さんは、旅行先でもどこか仮住まい感がある。気の毒だなと思う。

その点、このtsudoi-4Bはよかった。4ベッド、しかも全部正規のベッド。誰ひとり、臨時採用の寝床に回されないのである。家族全員が一つの部屋で、しかも全員が対等に眠れる。これはかなり大きい。寝る場所の平等というのは、家族の平和に直結していると思う。大げさではなく、本当にそうなのだ。

私などは、ホテルに泊まると部屋の間取りやベッドの並びを見ただけで、妙にうれしくなる性質がある。子どものころも、親に連れられて泊まった旅館で、布団がずらりと並ぶのを見るだけでテンションが上がっていた。あの「今日はここで全員寝るんだ」という感じが好きなのだと思う。修学旅行ほど大げさではなく、でも日常ではない。あの少しだけ落ち着かない感じが、私はわりと好きなのである。

しかも今回はラウンジアクセス付きである。これはもう、ポイント宿泊なのに気分だけはだいぶ上流である。ティータイムやカクテルタイムが楽しめるので、ラウンジに行くだけで「自分は今、きちんと休んでいる」という顔ができる。普段の私は、家でお茶を飲んでいても、どこか「ついでに洗濯物たたまなきゃ」という顔つきになってしまうのだが、ラウンジにいると不思議とただ座っていても許される。椅子と空間の力はすごい。

カクテルタイムには、広島の地ビールや地酒をいろいろ楽しめて、私はたいへん満足だった。こういうとき、人はすぐ「飲み比べ」という言葉を使いたがるが、私も例にもれずしっかり飲み比べた。地ビールというのは、それぞれちゃんと個性があるようでいて、数杯飲むと最終的には全部「おいしい」の一言にまとまるところが、なんだか人間らしいと思う。地酒も同じである。細かい違いを語れるほど繊細ではないが、旅先で飲む酒は、それだけで少しおいしい。景色もつまみのうちなのだろう。

朝食もまたよかった。ラウンジ会場で、ステーキやオムレツをテーブルオーダーできるのである。朝からステーキと聞くと、一瞬ひるむ人もいるかもしれないが、旅先ではそういう常識がゆるむ。むしろ「朝からステーキを食べている自分」に酔えるので、これは一種のイベントである。しかもスパークリングワインまで飲める。朝食会場で泡の立つグラスを持っていると、ただの朝ごはんが急に「優雅な朝」になるから不思議だ。家で同じことをしたら、かなり心配されるのに、ホテルだと許される。場所というのは本当に大事である。

そんなわけで、ホテルグランヴィア広島での宿泊はかなり満ち足りたものだった。広島駅直結という便利さもありがたいし、4ベッドの安心感もあるし、ラウンジでは地のものを楽しめる。家族みんなで一部屋に泊まれて、誰もエキストラベッド送りにならず、朝からスパークリングワインまで飲めるのだから、これはもう小さな平和条約みたいなものだと思う。

やはりポイントは、貯めて眺めるより使ったほうがいい。そう頭ではわかっているのだが、また次もたぶん「もったいないな」と思いながら貯めるのだろう。人間は学ばない。しかし、その学ばなさのおかげで、また次の楽しみもできるのだから、まあそれでいいのである。

ちなみに、ホテルはJR広島駅直結で良いホテルだった。ポイント抜きにもまた泊まりたいと思えるクオリティだったことは申し添えておく。ちなみに北口と南口にそれぞれ「グランヴィア」と付くホテルがあるので行かれる際はご注意ください。

参考:ホテルグランヴィア広島に泊まる(楽天トラベル)

参考: WESTERポイントのお得な貯め方と使い方、交換ルート解説 ポイント特典きっぷやホテル宿泊券がお得 

【2026年3月 アフィリエイト報告】放置ブログを日記として復活させた私の広告収入が、あまりにも駄菓子みたいな額だった件

ブログというものは、しばらく放っておくと、なんとなく押し入れの奥にしまった健康器具みたいな気配を出してくる。使おうと思って買ったのに、気づけば上に別の荷物が積まれ、存在だけがうっすらしているのである。私にとってこのブログも、まさにそういう感じで、だいぶ長いこと放置されていた。

それが最近になって、なぜだかまた書こうという気になった。別に志が高まったわけでもないし、世界に向けて何かを訴えたくなったわけでもない。ただ、自分の日記として復活させるのも悪くないな、と思ったのである。人間、年をとると、自分が昨日何を食べたのかすら怪しくなってくる。ブログでも書いておけば、少なくとも「ああ、この頃の私はこんなことを考えていたのか」とあとで見返せる。見返して感心するような内容ではないが、何も残っていないよりはマシなのだ。

そしてこのブログには、読者もご存知のとおり、多少なりとも広告が貼ってある。多少なりとも、という言い方がいちばんしっくりくる。昔のように、ぎらぎらした目で「ここに広告、あそこにも広告」と詰め込んでいた時代とは違う。あの頃の私は、ネットの海の向こうに金脈が埋まっていると本気で思っていた節がある。今思うと、スーパーのチラシを握りしめて走るおばちゃんくらい必死だった。いや、おばちゃんに失礼かもしれない。おばちゃんはちゃんと成果を出している。

今はそこまでゴリゴリにアフィリエイトをするつもりはない。ないのだが、多少なりの収入があると、やはりうれしいのである。サラリーマンにとって副収入ほどありがたいものはない。毎月きっちり働いて、きっちり税金やら何やら引かれて、「はい、今月もお疲れさまでした」と言われても、財布の中身はたいしてふくらまない。その横から、ぽとりと小銭でも落ちてくると、人は妙に機嫌がよくなるものだ。たとえその小銭が、自販機の下をのぞき込んで見つけた10円玉みたいな額でもである。

ということで、発表しよう。このブログ記事のメイン広告、2026年3月の結果である。

8829回表示。
41回広告クリック。
報酬21円。

バーン、である。

いや、バーンじゃないのである。
21円でバーンと言われても、火薬が足りない。せいぜい「ポスッ」である。湿気たかんしゃく玉くらいの勢いしかない。

計算してみると、1クリックあたり約0.5円。私はこの数字を見たとき、なんとも言えない気持ちになった。0.5円というのは、もはやお金としての輪郭が薄い。半円玉がない以上、現実世界では単独で存在できない額である。つまり広告が1回クリックされるたびに、私は現実に存在しないものを受け取っているのだ。そう思うと少しかっこいいが、実際は全然かっこよくない。

昔、子どもの頃に駄菓子屋で「10円あればけっこう買える」と思っていた時代があった。あの頃の私に21円を見せたら、たぶん小躍りしたと思う。しかし今の私は、21円を見ても小躍りしない。コンビニでレジ横の募金箱に入れるかどうか一瞬迷うくらいの額である。人は大人になると夢を失うのではなく、21円への感受性を失うのかもしれない。

それでも、ゼロではないのである。ここが妙に大事だ。放置していたブログに広告を貼って、誰かが見て、誰かがクリックして、その結果として21円が生まれた。そう考えると、なんだか道ばたに咲いた雑草みたいで健気ではある。誰に頼まれたわけでもないのに、勝手に生えて勝手にがんばっている感じが、今のこのブログにはある。

もちろん、このペースでは最低受取額に到達するまで何年もかかりそうだ。下手をすると、受け取る前にサービスが終わるか、私のやる気がまたどこかへ行くか、どちらかである。そう考えるとずいぶん頼りない話だが、まあいいのよ、と思う。日記のついでに21円がついてくると思えば、ないよりはだいぶいい。期待しすぎるからがっかりするのであって、最初から「駄菓子一個ぶんにもならないかも」と思っていれば、21円でも意外と健闘しているように見える。

人生もたぶんそんなものなのだ。大きな花火を期待していたら、湿った音しかしないことがある。でも、音がしただけでも一応よしとするしかない。私の3月のアフィリエイトは、そんな感じだった。

つまり今月の結論としては、ブログは復活した。広告も一応働いた。私は21円を得た。
そして21円では何も買えないが、話のネタにはなったのである。

車検 タイヤ交換 ディーラー 楽天タイヤで心が往復する話

車検が近づいてくると、私は少しだけ人相が悪くなる。べつに誰かに怒っているわけではないのに、なんとなく口がへの字になるのである。二年に一回しか来ないくせに、毎回きっちり憂鬱を連れてくるあたり、車検というものは妙に律儀だと思う。

最初のころは、車検といえば「車を見てもらって安全になるんだから、ありがたいことだ」と、わりと素直に考えていた。ところが何回か経験すると、ありがたさの横に「いくらかかるんだろう」という、いやに現実的な顔をした不安が並んで座るようになる。しかもその不安は、かなり場所をとる。

そしてだいたいこの時期になると、もうひとり、毎回顔を出す人物がいる。タイヤ交換である。人物ではないが、気持ちとしてはもう親戚みたいなものだ。「そろそろタイヤ交換も」と前回も言われた気がするし、その前も似たようなことを言われた気がする。タイヤというのは、いつ見ても黒くて丸いだけなのに、急に高級品みたいな顔をしてくるから油断ならない。

私は車のことがよくわからない。タイヤの溝がどうとか、ゴムがどうとか言われると、「なるほど」と言いながら、心の中ではほとんどわかっていない。たぶん学校の授業でも、わからないのにわかった顔をしていたタイプである。そういうところだけ成長していないのだ。

それで、ディーラーに頼むと高いんだよなあ、と思う。いや、高いといっても、ちゃんとしてくれる安心料みたいなものはあるのだろう。店もきれいだし、飲み物も出るし、待っているあいだに「大人のきちんとした買い物をしている人」みたいな気分になれる。けれどその気分に二万円以上の価値があるかと聞かれると、私は急に口数が少なくなるのである。お茶とクッキーで二万円は、さすがに高級すぎる。

そこで楽天タイヤを見る。こういう時の私は妙に熱心で、ふだん洋服ひとつ買うにもぐずぐずするくせに、タイヤの値段になると真顔で比較を始める。総額で九万円くらい。安くはない。でも、ディーラーより二万円以上高くなるなら、もう面倒でも楽天でやるかな、という気になる。「経験値だと思って」という言い方を自分でしていて、なんだそれはと思う。私はいつから、タイヤ交換を冒険みたいに考えるようになったのか。

>>楽天Carタイヤ交換
アフィリエイトリンクなので安心して踏んでもらっていい。なんならタイヤ買ってください。

経験値というのも、たいていは面倒くさいことの言い換えである。若いころは、知らない店に入るのも、新しいことをするのも、多少は胸が躍った。いまはもう、胸が躍る前に「ちゃんと予約できるかな」「当日迷わないかな」「変なサイズを選んでいたらどうしよう」が先に来る。だいぶ地味な人生である。でも地味な不安は、派手な不安よりしつこいのだ。

昔、家の近くの自転車屋で空気を入れてもらっただけなのに、ついでにあれこれ直されて、最後によくわからない笑顔でお金を払ったことがある。あの時の私は、完全に店の人の流れに乗せられていた。川を流れる葉っぱみたいなものだったと思う。車検のたびに、その時の葉っぱの私がうっすら蘇る。たぶん私は、乗り物のメンテナンスという場面で、自分の意思がかなり弱くなるのである。

とはいえ、安ければ正義というわけでもない。結局、安心したいし、損もしたくないし、できれば面倒も避けたい。全部ほしい。こういうのは本当に、私の小ささがよく出る。堂々と「安全のためなら払います」と言えたらかっこいいのだろうが、私は電卓をたたきながら、あっちを見たりこっちを見たりしている。安全も大事、でも二万円も大事。なんともせせこましいが、生活とはそういうものなのだと思う。

たぶん最終的には、値段と手間と気分を天秤にかけて、いちばん「まあいいか」と思えるところに決めるのだろう。車検もタイヤも、考え始めると大ごとみたいだが、終わってしまえばたいてい忘れる。そして二年後、また同じ顔で憂鬱になるのである。人は成長するとも言うが、こういう件に関しては、私はずっと同じ場所をくるくる回っている。

でもまあ、タイヤひとつでこんなに悩めるうちは、まだ平和なのかもしれない。そう思うことにした。たいした悟りではないが、どうせ丸いタイヤの話なのだから、結論もそのくらい丸くていいのである。

WESTERポイント38万ポイントを1年で使い切るという、地味に重たい課題

先日、私はスマホの画面を見ながら、静かに固まっていた。
何を見ていたのかというと、WESTERポイントの残高である。

385,928ポイント。

数字だけ見ると、なかなかの貯金に見える。
しかしこれは現金ではない。ポイントである。しかも期限付きのポイント。
期限は2027年3月31日。
つまり、あと約1年で使い切らなければならないのである。

こういうのを見ると、人は急に哲学的になる。
私はスマホを見ながら、ぼんやり思った。

「人はなぜ、使いきれないほどポイントを貯めてしまうのだろう」

ポイ活というものは、基本的に楽しい。
なぜなら、お金が増えている気がするからだ。
実際にはお金ではなくポイントなのだが、そこはまあ雰囲気である。

数年前、あるインフルエンサーがこう言っていた。

WESTERポイントは超絶お得です

新幹線で使えば
1ポイント=2円以上。

ホテルでもお得。

つまり、普通に使うのはもったいないのである。

私はその言葉を聞いた瞬間、膝を打った。
そして心の中で静かに決意した。

「貯めよう」

こうして私のWESTERポイント人生が始まったのである。

しかし人間というのは、目的を見失いやすい生き物である。

貯めているうちに、だんだん目的が
「お得に使う」から「とにかく貯める」に変わってくるのだ。

気づいたら38万ポイントになっていた。

これはなかなか壮観である。
ゲームで言うと、ラスボス直前の経験値みたいな数字だ。

しかし現実に戻ると、私はそんなに電車に乗らない。

月に数回くらいだろうか。

新幹線に至っては、
「年に数回乗るかもしれない」
くらいの頻度である。

つまり、こういうことになる。

とてもじゃないが使いきれない。

ポイントというのは不思議なもので、
使うときになると急にケチになる。

1ポイント=1円で使える場所はいくらでもある。
しかし私はそれがどうにも許せない。

なぜなら頭の中では

「1P=2円」

という幻が住んでいるからだ。

この幻はなかなか強力である。

たとえばコンビニで
「ポイントで払いますか?」
と聞かれると、私は心の中でこう思う。

いやいやいや。
それはダメだ。
それは敗北である。

ポイントを現金と同じ価値で使うなんて、
なんだか損した気がするのだ。

そこで私はこの悩みを妻に相談した。

「ポイントが38万ある」

すると妻は一言で答えた。

「米を買えば?」

実にシンプルである。

確かにその通りだ。
ポイントは普通に使える。
米だって買える。

だが問題はそこではない。

1P=1円では使いたくない。

この感情である。

我ながら面倒くさい人間だと思う。

しかしこういう葛藤は、
ポイ活をやっている人にはわりと共通しているのではないだろうか。

得をしたい。
しかし損はしたくない。

その結果どうなるかというと、

使えない。

ポイントとは、本来使うためにある。
それなのに、価値を最大化しようとすると逆に使えなくなる。

これはもう哲学と言っていい気がする。

ポイントとは何か。
得とは何か。
人生とは何か。

そこまで考えたところで、私はふと思った。

まあ、最悪の場合は
米を買えばいいのである。

38万ポイントあれば、
かなりの米が買える。

もしかすると私は、
この1年で日本一米をポイントで買う男になるかもしれない。

それはそれで、ちょっと面白い。

人生というのは、だいたいそんなものである。

楽天グループ 株主優待 無料SIMの紙を捨てた私の、うっかり節約失敗日記

このあいだ、家に届いた封筒をなんとなく開けて、なんとなく中を見て、なんとなく「あとで読もう」と思い、そしてなんとなく捨てた。私の「なんとなく」は、だいたいロクなことにならないのである。

あとになって、Xで「昨日今日くらいで届いている楽天グループの株主優待の通知は捨てないで!」という投稿を見た。捨てないで、と言われた時にはもう遅い。私はその投稿を見るまでもなく、すでに見事に捨てていたのである。早い。判断が早い。いらないほうにだけ。

楽天グループの株主優待というのは、100株持っていると楽天モバイルの回線が実質1年使えるとかなんとか、そういうたいへんありがたい話らしい。無料SIMだとか、通信費の節約だとか、聞くだけで家計の味方という感じがする。そういう得なものに限って、私はだいたい紙で来た時点で負けている。アプリの通知ならまだしも、紙になると急に「町内会のお知らせ」みたいな顔をしてくるから油断するのだ。

しかも今回は、ただの案内ではなくて、申し込みに必要なIDやパスワードが書いてある紙だったらしい。継続の人も手続きが必要だという。そんな大事なことを、あんな普通の顔をした紙に書かないでほしいと思う。もっとこう、金色にするとか、封筒に「あなたが捨てると損します」とでも書いておいてほしい。いや、たぶん書いてあっても私は捨てるかもしれない。自分を買いかぶってはいけない。

あわててゴミ箱をあさった。ゴミ箱をあさる自分の姿というのは、なかなか人に見せられるものではない。株主優待を受ける人というのは、もう少し落ち着いた顔で暮らしているのかと思っていたが、実際はゴミ袋の中で「あれか、これか」と紙を引っぱり出している。優待以前に生活を優待してほしい。

なんとかその紙は発見された。よかったよかったと思って手続きを進めようとしたところ、今度はマイナンバーカードの電子認証の有効期限が切れていた。ここで私は少し笑ってしまった。いや、笑うところではないのだが、もう笑うしかないのである。紙を捨て、掘り出し、本人確認でつまずく。この流れの悪さは、朝から張り切って出かけたのに財布を忘れて駅まで行く感じに似ている。いや、もっと地味でみじめかもしれない。

私は昔から、何かを一個忘れると芋づる式にいろいろ忘れていることが多い。学校のころも、体操服を持っていく日に限って赤白帽を忘れ、赤白帽を持っていく日に限って上履きを忘れていた。準備をしたつもりで、いちばん大事なところが抜けている。そういうポンコツ気質は、年を重ねてもわりと元気に生き続けているようだ。成長とは何なのだろうと思う。

それにしても、電子認証の有効期限というものは、絶妙に忘れる。カード自体の期限とは別に、ああいう見えにくい期限があるのがいかにも役所っぽい。冷蔵庫の奥でしずかに期限切れしている納豆のようである。見ればわかるのに、見ないから気づかない。そして気づいた時には、ちょっと面倒なことになっている。

こういうことがあるたびに、私は「ちゃんとした大人になろう」と一瞬だけ思う。でも一瞬だけなので、たぶんあまり効いていない。大人になってずいぶん経つのに、いまだに「今週中にでも役所いこう」と、夏休みの宿題みたいなことを言っている。役所も別に逃げないのだが、私のやる気はすぐ逃げる。

とりあえず今週中には行こうと思う。こういうのは、思っているうちが花である。無料SIMひとつもらうのに、ここまで自分のダメさを確認することになるとは思わなかったが、まあ、通信費の節約というのは、たぶんこういう小さい面倒に耐える人だけが手にできるのだろう。

私はその入口で、いったんゴミ箱に落ちたのである。

参考記事: 楽天グループ株主優待で楽天モバイル回線が1年無料 2026年の無料回線の条件と取得方法 

ベランダ菜園の植え替えと掃除で終わる日曜日、越冬ハーブの妙な生命力

少し暖かくなってくると、冬のあいだ見て見ぬふりをしていたものを、急に確認したくなる。部屋のすみのほこりとか、着ないまま放ってある服とか、ベランダの植木鉢とか。人はなぜ、寒い時期にはあれほど現実から目をそらせるのだろうか。寒いというだけで、だいたいのことは「また今度」で済ませられるのである。冬は言い訳の王様だと思う。

うちのベランダにも、そんな「また今度」を押しつけられていた鉢がいくつかあった。イタリアンパセリとタラゴンとタイムである。名前だけ並べると、うちのベランダだけ妙にしゃれた料理研究家の家みたいだが、実際は洗濯ばさみが一個落ちていたり、風で飛んできた葉っぱがすみにたまっていたりする、生活感たっぷりの場所である。

冬のあいだ、私はそのハーブたちをほぼ放置していた。ほぼ、というか、かなり放置していた。水やりも「今日じゃなくても大丈夫そうだな」と何度も先送りし、見た目もだいぶ地味になっていたので、正直もうだめかもしれないと思っていた。植物を育てていると言うには、あまりにも胸を張れない態度だったと思う。育てているというより、同じ家に住んでいるだけである。

それが、少し暖かくなった日にふと思い出して見てみたら、なんと越冬していたようなのである。あの寒さを、あの細い葉っぱたちが、黙ってやり過ごしていたのかと思うと、ちょっと感心した。私は冬になると、布団から出るだけでひと仕事なのに、タイムなんかは何も言わずにそこにいた。えらい。いや、比べる相手が私では、たいがいのものはえらく見えるのだが。

越冬していたとわかると、急にこちらも態度が変わる。昨日まで半分あきらめていたくせに、「これはちゃんとしないといけない」と思い出すのである。現金なものである。私はさっそくホームセンターへ土を買いに行った。こういう時のホームセンターという場所は、妙に人をやる気にさせる。土、肥料、鉢、スコップ、名も知らない便利そうな道具。見ていると、自分がものすごく園芸のできる人間になったような気分になるのだ。

しかし実際の私は、土を前にして「どれがいちばんふつうの土なのだろう」としばらく立ち止まる程度の人間である。ハーブ用と書いてあれば安心し、花と野菜の土と書いてあれば、ハーブは花なのか野菜なのか少し迷う。毎回こんな感じなのに、なぜかホームセンターではベテランの顔をして歩いてしまう。たぶん、土売り場にいる人はみんな少しだけ見栄を張っていると思う。

土を買って帰り、植え替え作業をした。鉢から出した根を見ると、植物がちゃんと生きている感じがしておもしろい。地上ではあんなに静かなのに、下では案外たくましくやっているのだなと思う。人間もこういうふうに、見えないところでちゃんとしている部分だけを評価されたら、だいぶ気楽なのにと思った。表面でぼんやりしていても、「でも根は張ってますから」と言えたら便利である。

ついでにベランダも掃除した。植え替えだけで終わればよかったのに、土いじりを始めると、まわりの汚れが急に気になってくる。ひとつ片づけると別のだらしなさが見えてくるのは、掃除でも人生でも同じである。あまり広げて考えると面倒なので、人生のことは脇に置いて、私は黙ってベランダのすみのゴミを集めた。

そういえば子どものころも、部屋の片づけをしている最中によく昔のノートや漫画を読み始めてしまい、ぜんぜん進まなかった。掃除というのは、何か別のことを思い出させる力があるらしい。今回も途中で、昔、母が植木鉢を並べて何か育てていたことを思い出した。私はその横で何も世話をしないくせに、実がなれば食べる時だけ参加していた気がする。そう考えると、今の私もあまり成長していない。育てる苦労には鈍く、実りの気配には敏感である。人としてどうなのかと思うが、たぶんそういう人は多いのだと思う。

気がつけば、日曜日はほぼそれで終わっていた。出かけたといえばホームセンターだけで、べつに華やかなことは何もない。けれど、植え替えた鉢と少しきれいになったベランダを見ると、なんとなくやりがいを感じたのである。日曜日らしい充実といえば、もっとしゃれたものを想像しがちだが、土を入れ替えて落ち葉を集めただけでも、案外ちゃんと一日を使った気分になる。

たぶん私は、何か大きなことを成しとげたいというより、見える範囲が少しだけましになると安心するのだと思う。越冬したハーブたちも、別に私を感動させようとして生き残っていたわけではないだろう。ただ淡々と寒さをやり過ごして、春が来たからまた少し元気を出しただけなのだ。

そう考えると、日曜日がそれで終わったのも悪くない。私もハーブも、たいしたことはしていない。でも、冬を越えたあとに土を替えて、少しきれいにして、なんとなく満足する。それくらいがちょうどいいのである。人間もベランダも、急には立派にならないのだ。

久留米・城島酒蔵びらき2026|新酒飲み比べと地元グルメに振り回される私の早春週末

二月の半ばというのは、寒いのか春なのか判断に迷う時期である。私は毎年この頃になると、厚手のコートを着るべきか、もう少し軽装で粘るべきかで一度は失敗する。そして今年も例に漏れず、そんな判断力の鈍さを抱えたまま、**第32回城島酒蔵びらき**のことを考えていた。

城島酒蔵びらきは、福岡の久留米にある“酒どころ城島”で毎年行われる恒例行事である。九州最大級と聞くだけで、私はもう人混みで酔いそうになるのだが、酒が主役の祭りとなると話は別だ。人は多くても、酒があればだいたい許せるのである。

会場は城島町民の森公園。名前からしてもう健全で、朝九時半から酒のイベントをやる場所としては少し爽やかすぎる気もする。今年は八つの蔵元が参加し、新酒が四十種類ほど飲めるらしい。四十と聞いた瞬間、私は自分の肝臓の顔色を思い浮かべたが、向こうも長年の付き合いなので、たぶん何も言わずに付き合ってくれるだろう。

チケットは十五枚綴りで二千円、お猪口付き。お猪口が付くと、なぜか「ちゃんとした行事」に参加している気分になるのが不思議だ。昔、縁日で金魚すくいをした時も、ポイを渡された瞬間だけはプロになった気がした。結果はいつもゼロだったが。

酒だけでなく、ホルモン焼きやもつ煮込み、そばなどの地元グルメも並ぶらしい。私は「飲みながら食べる」という行為があまり上手ではなく、だいたいどちらかに集中してしまう。結果、気づくと酒だけ進み、食べ物は冷めている。学習能力がない自分に、ここでも軽くため息が出る。

それでも、無料シャトルバスが出ているのはありがたい。西鉄やJRから運んでもらえるというのは、「今日は飲んでいい日なんだ」と公式に認められた感じがして、少し気が楽になる。駐車場に一千円払って飲酒運転防止に協力する仕組みも、なんだか城島らしくて真面目だ。

太鼓や酒造り唄、音楽ステージもあるそうだが、正直、私は酒を飲むと音楽の細かい違いがよく分からなくなる。全部「いい音だなあ」に集約される。それでも不満はない。だいたい、分からなくても楽しめるのが祭りというものだ。

こうして考えていると、城島酒蔵びらきは、酒を飲むイベントというより、「毎年同じように迷い、同じように飲み、同じように少し反省する」ための行事なのかもしれない。今年もきっと私は飲みすぎて、「もう若くないな」と思いながら、来年の開催情報をチェックするのである。まあ、それでいいのだ。