先日、知人の紹介で支援していたクラウドファンディングのスイーツが届いたらしい。
「らしい」というのは、私がそれを見ていないからである。
そしてもちろん、食べてもいない。
そのスイーツの名前は「キャビエル・サンド」。
なんだか高級そうな名前で、聞いた瞬間に私は少し背筋を伸ばした。キャビエル、という響きがすでに只者ではない。キャビアの親戚みたいな顔をしている。
話によると、キャビア塩を使ったパールチョコレートと、海をイメージした二層のマスカルポーネクリームを、ダイヤモンド型のクッキーで挟んだお菓子らしい。
説明を読んだだけで、私はすでにおいしい気分になっていた。人間というのは想像力だけでもだいぶ幸せになれる生き物なのだ。
しかし現実は厳しい。
私が帰宅したとき、箱はすでに開封され、
そして中身はすでに消えていた。
妻と子どもたちが食べたらしい。
私は思わず箱の中をのぞいた。
人は希望を捨てきれない生き物である。もしかしたら端っこに一つくらい転がっているのではないか、という淡い期待を抱いてしまうのだ。
だが箱の中は、たいへんきれいだった。
新品の引き出しのように整然としていた。
ここまできれいだと、むしろ清々しい。
「食べていいよ」とは確かに言った。
それは事実である。
しかし普通、「食べていいよ」という言葉には、
「一つくらい残しておいてくれるだろう」という、
人間社会のやさしい暗黙の了解が含まれているのではないだろうか。
どうやら我が家では、その文化は存在しないらしい。
結局、私が食べたのは、少しだけ残っていたキャビア塩入りのチョコレートだけだった。
ほんの欠片である。
口に入れると、チョコの甘さのあとにほんのり塩味がきて、たしかにおいしい。
おいしいのだが、気持ちは少ししょっぱい。
キャビア塩のせいなのか、
それとも私の人生のせいなのか、
そこはよく分からない。
妻と子どもたちは口をそろえて「すごくおいしかった」と言っていた。
そんなにおいしいなら、一つくらい残してくれてもよさそうなものだが、どうやらおいしすぎたらしい。
人はおいしいものの前では、思いやりを忘れる生き物なのだと思う。
そういえば子どものころ、冷蔵庫にあったプリンを兄に全部食べられたことがある。
私はそのときも、容器の底に残ったカラメルを舐めた記憶がある。
どうも私は昔から「残り物担当」の役割らしい。
ちなみにこのキャビエルサンド、どうやらもう一般販売が始まっていて、普通に買えるようだ。
つまり、また買えばいいのである。
最初からそうすればよかったのではないか、という気もするが、クラウドファンディングというのは応援の気持ちで参加するものなので、そこはまあいいのだ。
妻も子どもたちも「また食べたい」と言っていた。
私はまだ一度も食べていないのだが、
家族の感想だけで二回目の購入を検討している。
なんだか少し納得がいかないが、
まあ人生とはだいたいそんなものなのだと思う。
みんなも買ってみるといいよ。
キャビエルサンドのオンラインストア
